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天翔録〜酔いの夢 この見出しの固定リンク

たらい


 一

 そして――
 あたりは青白い炎につつまれた。
 熱のない、ぼんやりとした偽りのほむらである。
 無数の冷たい火の粉が舞い、あたかも星雲が地上に舞い降り、あるいはみなもの水が舞い上がったかのようでもあった。
 それにしても、これほど多くの
「蛍……」
 を羚明(ルビ:れいめい)は、みたことはなかった。
「みごとなものだな」
 歩きながら、徳利の酒を呑んでいた覇棄(ルビ:はす)もまた、いっとき、その手をとめ、感嘆の声をあげた。
 と、白い衣を羽織った細面の青年がふりかえる。
「どうしたのだ? こどものように、そんなに目をかがやかせおって」
 赤い太刀を腰にした白髪の剣士が問う。
 青年とよぶには、まだいくばくかのおさなさと、それにしては奇妙なほどの精悍さをもちあわせた羚明の顔に柔和な笑みが浮かぶ。幼い頃はかわいらしかったのであろうと評してもおかしくないものなのだが、陰陽師の過酷な修行のうちにいつしか、鋭さを宿していたのだが、その時の羚明の瞳には、たしかにこども時代のかがやきが戻っていた。
「すごいなとおもいましたから……」
 そのあまりにも素直なことばは、闇の世界の理につうじ、ひとの力を凌駕する妖すらも狩ることができる陰陽師のものとはけっしておもえなかった。そのせいであろうか。覇棄もまた年甲斐もなく、こんな風にこたえている。
「若者はよいのう。わしのように、この年齢(ルビ:とし)まで生きておると、そういうことにも興味や関心が失せるものじゃからな」
「もし、それが齢をかさねることだとしたら、ぼくは年をとりたくはありませんね」
「よくいいよるわ。女に酒に森羅万象にと、散漫な思いをいだく若造が」
「どうぞ、どうぞ、空の広さを知らぬきのうまでの籠のなかの小鳥をお笑いください。師匠(ルビ:’’)」
 陰陽師から師とたてまつられた侍は、髭の下の唇に微苦笑を浮かべ、
「なにを言っておる。酒におぼれた老人は師匠などとは呼ばれんのだぞ」
 と自嘲した。
「剣の聖(ルビ:けんのひじり)がなにをご謙遜を」
「知らんな、そんな名は」
 ふんと破棄は鼻で笑った。
「では、なんとお呼べすればよいのですか、師匠?」
 そう問うと、覇棄は酒のはいった壷を目の高さにかかげ、
「この酒のように、よくこなれた大人(ルビ:たいじん)とよんか!」
 かかと大笑した。
 腰の太刀も笑っていた。
「あのですね――」
 とあきれたところで、羚明は気がついた。
「ところで、師匠、その壷はまさか?」
「これか……」
 にやりと笑い、覇棄の表情は、数十歳は若いはずの悪童のそれとなった。なにも口にはしていないが、言外の意味くらい聡い羚明には簡単にさっしがつく。
「やはり……葦之大社(ルビ:あしのたいしゃ)に奉納された御神酒を無断で持ってきたのですね――」
 なんてことをするのですか。と言いかけ、
「まあ、いいか」
 と羚明はため息をついた。
 今宵は祭りの晩なのだ。すこしくらいはめは外したところで無礼講ということですまされるであろう。それに、この老人は生きる伝承とさえ呼ばれる剣豪なのだ。
 だから、
「残念だな。すこし、はずれておる。たしかに、これは御神酒じゃが、いっておくが神主殿には旧知の仲だからな、もっていくことには、許しをこうておるぞ」
 といわれても不思議はなかった。
「これだからご老人は……」
 陰陽師の見習いは肩をすくめた。
 ふたたび、蛍たちに目をやる。
 その生命を燃やし、踊り、それはいったいなにを求め生きているのだろうか。しょせんは畜生とは思いながら、羚明はそう考えずにはおられなかった。
 蛍たちの飛ぶあいだに、葦の多くしげる湖面がみえた。みなもに風がそよぎ、晩夏――あるいは初秋の気配すらただよわせている。
「あ、そうか……」
 ふいに羚明は気がついた。
 だから、この地は葦乃淡海と呼ばれるのだ。
 そして、その葦は、かつてこの湖の主であった大蛇のこどもたちが、勅命によって大蛇討伐を命ぜられた将軍によって破られたとき、葦になったと伝えられている。
 むろん、それはたんなる伝承である。
「にしても、どうして夏のこの頃になると祭りが多くなるのかのう?」
「期でございますから。霊たちを鎮めんとするからでございますよ」
「期?」
「霊的存在の力が増える時期の意味でございますよ」
 そう言われると、覇棄は、まじまじと見つめた。
「どういうことだ?」
「易書にいいます。この世は、陰と陽。うつつのものと霊なるものがおり織りなす一枚の絵巻物なのだと。そして絵巻物をひろげていくように時は移ろい、四季がめぐるようにひとと霊の時もまた移ろう。ひとは生まれ死ぬ。霊――妖もまた興り滅んでいく。時とはそういうものであり、世とはそういうものだと。そして、ひとは期を季節に込め、あるいは彼岸だというのだと。だから、この彼岸のことを期だというのだと」
「なんだかよくわからんな。頭が痛くなるようなことを考えておるのはわかるが……」
「それが術師が術師たる由縁ですよ。見えぬものをみ、聞こえざる声に耳をかたむけるものにとっては世もまた、ふだんのそれとは異なるのです。ちょうど師匠がぼくにはわからぬ剣技のための身体のわずかな動きがわかるように……」
「修練の差じゃよ」
「わたくしたちも、そうでございます。習いのちがいでしかございませぬ」
「ならば、わしらは、だいぶちがうな」
「はい。それが妖を狩る運命づけられたものと、そうでないものとのちがいでございます。それに、この蛍の群れ。わたくしは、人魂なのだと教わりました」
「この虫どもをか?」
「ええ――」
 羚明は目をほそめた。
「この美しい虫のあやなみすら、なにかしら霊的な意味で語ろうとする。それが、我々なのでございます」
「しちめんどうな」
「まこと。あなたが見ている世界とわたくしたちの知る世界は……あるいは別のものなのかもしれませんね。とくに、この地のような古き時代の血がみゃくみゃくと流れる土地にはさまざまな力がうずまいておりますから。ぼくのごとき見習いには察しかねますが」
「やれやれ。むずかしいことをよくも知っておるわ。これだから陰陽師は……」
 覇棄がぼやく。
 と、たのしげな、笑い声がしてきた。
 娘がかけてきた。
 手には蛍のはいったかごとうちわをもち、浴衣の裾から素足がのぞいている。蛍の青白いかがやきのなかに、そのか細いすがたが踊るように蛍を捕まえている。月光に、その女の無邪気な笑みが浮かんでいた。
「蛍狩か」
 覇棄がなにげにつぶやく。
「蛍狩?」
「なんだ、祭りの起こりのようなわけのわからぬは知っておるくせに、そんなことばもしらんのか? 蛍を捕まえることをそういうのじゃよ」
「ずっと都におりましたから、そんな田舎のことばも風習は知らないのでございますよ。もう何度いいましたっけ?」
「それは、耳にたこができるほどきいておるよ。だが、蛍を捕らえるくらいのことは、いかな都でもやっておったとおもうのじゃがな」
「それは卑賎な出のものたちでございましょ。それに都――すくなくとも、わたしのおりました学び舎では数匹の蛍をみるのが精一杯でございましたから」
「なるほどな。そういうことか。ひとは学ばぬ限り知らぬものだからな、いたしかたあるまい」
「まったくでございます。それにしても、さすがご師匠さま。よいことを申します。人生の経験の数では勝てません。学ばざるにしかざるなりと肝に命じておきます」
「いいよるは小僧」
 そんなことを言い合い、ふたりは笑う。
 きゃっという悲鳴があがった。
 そのとたん、自然、羚明の身体が動いていた。
「どうしたんですか?」
 と、娘のところへ行く。
 女は腰をおろし、裾からのぞく細い足ををさすっていた。
「いえ、ちょっとくじいたみたいで……」
「ちょっといいかい?」
「あ……はい――」
 娘は羚明の申し出に驚きながらも、受け入れていた。
「あ、大丈夫ですよ」
 医術の心得があるらしいとわかったらしいのだが、娘は男のこういう行動には慣れておらぬのだろう。
 娘は、羚明の横顔を見つめながら、その頬をあからめていた。
「まったく、ほれやすく、ほれられやすいやつじゃよ」
 そんなふたりのようすを目にし、酒をふたたび口にすると、覇棄は少々、苦い顔をしながらひとりごつ。
「あの娘(ルビ:’’’)がでてこんことを祈ろう。今晩くらい静かにしておりたいものじゃからな」

 けっきょく――
 娘の怪我はたいしたことはなかったが、大事をとって村まで連れやることとなった。
 めずらしく羚明が肉体労働をする気になり、娘を背負ったのは、それが女であったからにちがいない。
 このあたりが覇棄などからいわせれば
(女好き)
 なところである。
「それでどうして蛍なんて追っていたんだい?」
「だって、かわいいし、きれいだし……それに――」
「それに?」
「あなたさまにお会いできましたから――」
「ありがとう……」
 と、いつのまにか仲良くなっているあたりは、さすがである。
 ふたりから、いくらか間をおいて覇棄が歩いていた。ひと知れず、その皺深い瞼の奥底には、若人を見つめる、やさしげな笑みがある。
「あそこです」
 娘が指差す。
 湖畔の森のなかに村があった。
 こじんまりとした、数軒ばかりの群落である。
 さびれた風のあたりの家々の火は消え、人影もないが、さすが祭りの日だとみえ、村のなかほどにあるちいさな社からは笛、太鼓、拍子にあわせ呂律のまわらぬ歌がする。宴のさなかのようであろう。
 覇棄のほおがゆるむ。
「酒のにおいじゃな」
「えっ?」
「わからぬか?」
「ええ……」
「そうだろうな」
 と覇棄は意味深長は言いまわしをした。
「では、わしは酒でも呑んでこようか」
 羚明のおぼえているかぎり、ほぼ朝から浴びるように酒をのんでいるはずの老人は、嬉々としながら社へ向かっていく。
 ふたりが残された。
「あぁ……」
「はい?」
「あ、いや……」
「なんです?」
「いや……そうじゃなくて――きみのうちはどこかな?」
「どうしてですか?」
「どうしてって――」
「ふたりきりになるのいやですか?」 
「そんなことはない……そんなことはないよ。でも、でもね……きみ――きみ? そういえば、きみの名前は?」
「――けいか」
 ひと息おき、少女はいった。
「けいか?」
 なんと奇妙な名前なのだろう。
 それは名前というよりも、むしろ音であるように羚明には聞こえたのだ。しかし、それも鄙の文化と都のそれとのちがいなのであろう。ならば、そんなものなのだろうと納得するしかない。それに、じぶんの名前とて、
「羚明? まるで神主さんみたいですね」
「そうだね」
 そうなのだ。
 羚明とは彼の本当の名――父母がつけてくれた名前ではなく、修行のために師よりあたえられた仮のものなのである。ひとと妖のあいだにあるに属することを意味するものだと、かつて聞いたことがある。そして、いまでは羚明もそれをようやく理解できるようになっていた。
 それにしても、こうしていると、
「なつかしいな」
「なつかしい?」
「昔の……むかしの娘(ルビ:こ)のことを思い出していたんだ」
「どうして?」
「同じにおいがしたから――」
「同じ?」
 羚明は、たださびしそうに笑っているだけであった。

 三

 しばらく――
 宵の刻は、酒の酔いとともに深まっていった。
 小川のせせらぎは心地好く流れ、それに足をつけ、うちわをあおぎ、涼をもとめながら杯をあおるのも一興である。
 覇棄の喉をごくごくと酒が落ちていく。
 その横には、小太りな農夫がおり、顔をまっかにしながら老剣士に語りかけている。たがいに酒が好きで、みょうに気があうようなのである。
「このあたりはですね……」
「静かに呑めんのか!」
 といった具合にはなしがあうといういわけではないのだが、酒をくみかわし、ただ、それだけでよいと思える、あるいはもっとも酒の友としてふさわしい男たちであったのかもしれない。
 老人に叱責されながらも、中年の男はくちさががない。
「どうです、よい村でござんしょ?」
 ついにも覇棄もあきらめる。
「どうかのう。たしかに酒うまく、女もよい。まことにもって、よい村なのじゃが酒の友は一夜の友ともゆうしな、あるいはすでに酔うておるゆえ、そなたも――あるいは、この村すらもわしの見とる夢の一場なのやもしれぬな」
「なにをいってられるんですか、お侍さまは」
 農夫は覇棄の空になった杯に酒をそそいだ。
「酔生夢死じゃよ。この年齢(ルビ:とし)になると、ようわかる。いままでの生が嘘かまことかわからぬと。酔いのなかの夢が、しらふのうつつとはたがはぬとな」
「なにをいってらっしゃるのですか?」
「酔っぱらいのたわごとじゃ」
 女がやってきて、なにやらの果実をおいていった。
 覇棄は、それを食べた。
「ほぉ」
 酒好きの彼としては、しいて甘いものが好きというわけではなかったが、うまいものには目がないのだ。
「よいできだな」
 水っぽくはなく赤い実はしっかりしている。けして甘すぎるというわけはないが、ふってかけた塩のからさが、その甘さをひきたてている。
「まったくもって、よいできでございました。ここ数年で、もっともよいできでございましょうか」
「なるほどな。で、これはなんというのだ?」
「彼岸の実と呼んでおります」
「彼岸か」
「はい。彼岸の時期にできるのでございます。そういえば、今宵は期の宵でございましたか。酒を呑むと、どうも頭がまわりませぬ」
「期の宵?」
「彼岸のことを、このあたりではそういうのでございますよ」
(羚明のいうあれか?)
「妖たちが跳梁跋扈する夜というわけなのか?」
「そういわれております……はたして、それが本当であるのかはわかりませぬが」
「そうだな。埒もないことをいってすまぬ」
 覇棄はあやまりながら酒を農夫にいれた。
 そして、ふたりは理由もなく笑いあって、また酒をあげるのであった。
「まあ妖だろうがなんだろうが、あいつでなんとかするだろうし、最悪、あの娘がついとるから大丈夫だと思うがな――」

 四

 たぶん――
 男とは、その初めての恋とともに生き、老い、そして死んでいく悲しい存在なのだ。羚明は、そんな風に昔から思っていた。
 草むらから半身をもたあげ羚明の裸体が月明かりに映える。
 なで肩のひ弱そうな肉体は、それでもひきしまり、あまりにも多くの刀傷があった。
 さきほどまで眼前にあった胸のふくらみから視線を外し、けいかのけだるげな丸い顔を見つめる。
「なに?」
「いや、なんでもない……」
 その髪をもてあそびながら男はいった。
 うそである。
 ちがう娘といながらも、最初の子のことを考えているのだ。あの娘の面影を、なぜかさがしてしまうのだ。不埒なのはわかっている。わかってはいるが――
 どこからか視線を感じる。
 羚明はため息がでてきた。
 秋かと思えるような、心地好い風に、みなもがゆれ、それに映し出された月もまたゆれていた。あたりで蛍たちが舞っている。
「蛍はね、身を燃やし恋をしているの――」
 ぽつりと、けいかがこぼす。
 なにもいえなかった。
 気のきいたことばひとつ、思い浮かばぬのである。
 経典の文句を唱えてみたところで無意味なのはわかっている。ならば、なにもくちにせず、ただこのいまを感じていたい。明日になれば、この地を離れねばならぬのだ。このここちよい、時を羚明は味わっていたかった。
 やがて、風がでてきた。
 月が雲に隠れた。
「風のにおいが変わった?」
 羚明は高い鼻でかいだ。
 わずかだが、水のにおいがする。
 水辺に近いので自信はないが雨が近いのかもしれない。たぶん、この雨がくれば夏は去っていくだろう。一雨ごとに秋へとなっていく。
「季節はうつろう――」
 羚明はぽつりとつぶやく。
「生命のうつろい……」
 唱和するようにけいがいう。
「けいか?」
 あわだつような恐怖が心に生まれ、男は立上がろうとした。しかし、立てない。
「なッ?」
 足元に蛇がのたうち、まるで紐にでもつながれたようになってしまっているのだ。いつのまにか草むらの草が蛇へと変わっている。
「逃がさない――」
 けいかがつぶやき、その両手がふたたび羚明を抱いた。
 その時、羚明の白い羽織がふわり浮かび、どこかへと飛んでいった。
 

「貴様?」
 覇棄の眉があがる。
「どうなさいましたか?」
「酔生夢死だ……」
「はッ?」
「酒のせいか見たくもないものが見えるようでな。それで、なんの用事だ? お前は羚明とともにおったのではないか?」
 覇棄の目には、その白い姿がうつっていた。
「はい」
「なんだと? どこで!?」
 老剣士がいままで酒を呑んでいたとは信じられぬ身のこなしで腰を浮かせた。
「お侍さま、いったい誰とはなしておられるので?」
「はなすだと? そこに女がいるのがわからんわけではあるまい」
 と、覇棄は女を指差した。
「見えませぬが? やはりお侍さまをお酒のせいで……」
 そういって老農夫はおかしそうに笑った。
 しかし、覇棄は酔いが一変にふっとんだかのように、みるみるうちにまっさおになる。
「見えぬだと? どういうことだ!?」
 羚明と同じ白の着物を羽織った、まだ多分にあどけなさが残るうりざね顔の女に問う。
 くちにはなにも答えず、女はさきほどまでさしていた月光と同じ色の腕をふるうといちじんの風が吹き、あたりは一変した。
「これは?」
「真実の姿」
 ひとことで女はすべてを語った。
 いままで見えていた陽気な村は消えた。
 かつては、いままでと同じようなにぎやかさがあったのかもしれぬが、いまそこにあるのは誰も住まぬ村であったのだ。
 覇棄の横には骨が転がっている。
「なるほどわしは死者と酒をくみかわ しておったわけか」
 いまさら、なにがあっても驚かないであろうという態度で覇棄はあるがままを受け入れた。
「微妙にちがいますが」
「どういうことだ?」
「いまはそれより――」
「そうだった。で、どこだ?」
「こちらへ――」

 しばらく走り水辺へでる。
 女の身体は浮いたまま、老人を誘う。
 つと、その足が止まった。
 女の顔が透けるほど青ざめる。
「羚明!」
 その細い身体を白くかがやく蛇にからみつかれ、あたかもそれと同化しようとしているかのように、その姿が透けていく。
「でおったな化け物!?」
 破棄は抜刀した。
 これほど巨大なものを斬るに、当たりも外れもない。
 一刀両断――
 手応えがなかった。
 ふんと吠え、ふたたび刃がうなる。
 やはり、空を斬る。
 たしかに、目の前に蛇の姿があるというのに傷ひとつつけれぬのだ。
 しかし、蛇がふるった尾はみごとに破棄の体をとらえた。
 うッとうめき、全身が地面にたたきつけられた。間一髪、片手で地面をたたき、受け身をとったが、背中に痛みがはしる。
 口から血をぺっと吐き、
「なるほどな」
 破棄は、鬼の笑みを浮かべた。
「陰陽師でもない、ただのひとでは妖は斬れぬというわけか」
 立上がりざま、黒い刀を投げ、赤い太刀に手をやった。
 太刀がうなり声をあげた。
 白蛇すらも、あとずさりしてしまうほどのすさじいまでの悲鳴にも似た叫び声だ。全土の寺の鐘を集め、鳴らしても、ここまで大きな音にはならないであろう。
 それに負けぬほどの大声で覇棄は叫んだ。
「なんじよこい!」
 しかし、それ(ルビ:’’)は来なかった。
 そればかりか、それ(ルビ:’’)は覇棄をこばんむかのように鞘から抜けなかった。
 体勢も取れぬほどに、覇棄の腰で、鞘が激しく揺れる。柄をにぎったその腕に血管が浮かび上がっている。それでもなお太刀は激しく震え、抵抗する。刃が抜けない。
「ひとにさわられぬのが、それほどまでにいやか!?」
 言いざま、覇棄は転がった。
 蛇の尾がとんできたのだ。
 それでも、覇棄は右手をはずさなかった。
 転がりつづける。尾が追ってくる。
(逃げるだけでは埒があかんぞ)
 しかし、刀が抜けぬいま、どうすべきか。
(なにかないか?)
 覇棄は舌打ちしたい気分だった。
 いまだ、太刀が抜けぬ。
(水にもぐって、逃げるか?)
 そんなおもいするする。
 しかし、それは覇棄にはできないことであった。
 体面を気にしてなどではない。逃げだしてよいのならば、そうするし、いままでもそうしてきた。天下無敵などという戯言に覇棄は興味がなかったのである。
 なぜならば、不思議な勝ちあり。不思議な負けなしという言葉のとうり負ける時には、負ける因がはじめからあるのだし、そのような勝負に身をさらすという大きな非がすでにあるのだ。そこに、いまさら逃げるという小さな非が加わったところで覇棄には痛くもかゆくもない。
 逃げるが勝ちがあることを知っているのだ。
 だが、行方の知れぬ羚明のことを考えると、そういうわけにもいかない。陰陽師であるのだから大丈夫ではないのかという気もするが、じぶんを慕う若者を棄てていく気にはなれないのだ。
「ええぃ。いいかげん言うことを聞けい! 羚明の奴がどうなってもよいのか!?」
 こらえきれずに、破棄は怒鳴った。
 その瞬間、力が抜けていくように、刃が抜けた。
 封印が解けたのだ。
(!?)
 太刀を抜く。
 いままでの硬さがうそのような軽さだ。
「いける!」
 覇棄はせまってきた尾を太刀で払った。
 そう。いままでさわることすらかなわなかった蛇の体を刀がはじいたのだ。
 覇棄は巨大な蛇を見た。
 白蛇の赤い瞳がにらむ。老人の黒い瞳がにらみかえす。
 じりじりと蛇は後退する。
 老いた男と、その太刀とに、気圧されているのだ。
 こうなれば、勝負は一瞬だった。
 あっ――というまもない。
 雷光のごとき一閃が、その手から放たれかとおもうと、巨大な白蛇は上段から打ち込まれた一刀のもとに断ち切られていた。
 あるいは、蛇には、なにがあったのかわからなかったのかもしれない。
 白い巨躯が倒れた。
 そして、その白い姿はやがてはじけ――蛍となった。

 五

「大丈夫か?」
「あれ――」
 羚明は目を開き、あたりを確認するようにながめ、
「あれ? けいかは……それに蛇――」
 といいかけると、師の大きくあたたかな手が額にかざされた。
「熱もないようじゃな。よかった。心配したぞ。あのようなもに憑かれおって、この未熟者が!」
「えッ?」
「あの娘、名をけいかと申したのか――蛍火というわけだったというわけだな」
「はい?」
「つまり、お前は――いや、わしもだが妖の跋扈する夜に迷いこんでしまったのだよ」
「でも、どうしてここが?」
「ほれ――」
 それまでそばで立っていた白い着物を羽織った女は羚明にかけより、背中から腕をまわした。
「その娘がわしにしらせてくれたのだよ。それにしても、こういうことはお前さんの得意とするところではなかったのかね?」
「あ、いえ……あまり得意でもないことを――」
 と、羚明はいいかけてあわててそれを打ち消そうとした。覇棄はにんまりと笑いながら目を細める。
「どうする?」
 この浮気者をどうするつもりだという言外の意味を込めた笑みだ。
 女は首をよこにふった。
「そうか、ならば好きにするがいい。男の女遊びを許せるとはな――」
 最後までいいおわらぬうちに、こんどは覇棄の腰の太刀が異を唱えた。
「この娘は妬いておるか」
 白い女と同じように物に封ぜられた女の魂を思い、覇棄は笑った。
「きょうくらいはふたりにさせてやれ」
 そして森のなかへ消えていった。
 女の目から涙がこぼれる。
 いや、それは雨粒であったのかもしれない。
「ごめん……」
 涙を指先でぬぐってやると、やがて女は羚明の着物になっていった。
 やがて雨がふりだし、しだいに明るくなってくる野辺は雨のなかに消えていった。

おわり


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