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HEIAN(へいあん) この見出しの固定リンク

たらい


 水面(みなも)に月が浮かぶ。
 すすきの穂がゆれ、五条の河に岸辺の虚像が踊った。
 心地好い音をたてながら河の水は流れていく。草むらには蛍が乱舞している。
 ぼんやりと、こんな景色を見ていると、このなにもかもが偽りの風景だとは信じられない気持ちになってくる。
 だが、たしかに、ここは、ひとの手でつくられた架空の世界――。
 物寂しげな音楽がスピーカーから流れていた。
 ひょっとしたら、このゲームが終わるまで、だれひとり見る者がいないかもしれないのに、こんなところにまで神経をいきとどかせているのだろうか。
(まさに『神は細部に宿る』ね……)
 ディスプレイに映った、そのゲームの画面を見ながら、霞丸(かすみまる)のプレイヤーの少女は、いまさらのように、このネットゲームにかける主催者側の意気込みと職人根性としかいいようのないプログラマーたちの仕事ぶりに感服した。
 時は2003年。
 前世紀の末期から流行のきざしのあったインターネットを利用しての多人数参加ゲームは、その年、あたらしい発展をみせていた。ネットワークゲームとしては、初めてシナリオが用意されたものがあらわれたのである。
 ネットワークゲーム・HEIAN。
 それは妖怪が存在する架空の平安京を舞台とした和風のロールプレイングゲームであった。それまで中世ヨーロッパを舞台にしたファンタジーが中心であった、その業界に新興の会社が異色のキャラクター性をもって乗り込んできたのだ。
『このゲームはプレイヤーたちにとっての第二の世界(セカンドワールド)。第二の人生を提供するものだ』
 と、主催会社であるアルケミアは大見得をきっている。そして、
『やりたいことがあっても現実にそれをかなえることができないのならば、それをこの架空の世界でかなえてもいいし、また普通のRPGのようにアルケミア社が全力をあげて作り上げたメイン・シナリオや、そこから枝わかれしたサブ・シナリオ。それに、我が社、自慢のシナリオジェネレーターが作り出す個々人それぞれ専用のシナリオを解くことに費やしてもよい。すくなくともゲームが終了するまでの一年間は、一日どころか、一時間はもちろん、一分、一秒にいたるまで、プレイヤーのみなさまをHEIANはけっしてあきさせることはない!』と宣伝している。
『それでも、もしあなたがあきたようなら参加費を返してもよい』
 とまで言い切っているのだから、アルケミア社の自信はなみ大抵ではないのだろう。
 たしかにこの四月にゲームのサービスが開始されて以来、その評判はゲーム好きのあいだで、うなぎ登りである。
「やっほぅ! 元気!?」
 チャット・ウィンドウ――ゲーム画面上の会話用の小窓に、あいさつの文章がアップされ、同じ画面上にひとりの稚児のキャラクターがあらわれた。
千鳥(ちどり)。遅いぞ!」
 霞丸のプレイヤーは、そのキャラクターの性格にあわせたあいさつを返した。友人がこたえる。
「ごめん。ごめん。ちょっち、コミケ用の原稿をあげていて遅れちゃってね。しかも、こことの回線がつながらなかったのよ。最近、ここも重いんだよね」
「セリフが地のままだぞ」
「ああ、ごめん。じゃなくて……すみません霞丸さま」
「うむ」
 平安時代の警察官である検非違使というキャラクタークラスを演じる霞丸は、それにふさわしいであろう重々しい返答をした。従者である千鳥がたずねる。
「霞丸さま。今宵はいかがなさいますか? 邪神退治のシナリオ絡みの情報をなにか手にいれてございますか?」
 プレイヤーの彼女たちはアルケミアの用意したメインのシナリオをやっている。画面上の隅にはシナリオ名が「天風帖」となっていた。
「いや、今日はこのシナリオから外れてみようと思う。というか、どこのシナリオということもないのかもしれないが、上からの命でな、月姫のところにでも行こうかとおもっているんだ」
「月姫さまの所でございますか……」
「なにか言いたげだな?」
「最近、霞丸さまがご執着なようすなので」
「ちがうな」
「ちがうんですか?」
 恋人の浮気を疑っているかのような口調だ。
「執着などできるわけがないではないか。月姫さまのような、やんごとなき方には、おれのような下賎な者は、あまりにも不釣り合いすぎるよ」
 月姫とは、最近とみに評判なキャラクターのことである。
 どうやら主催者側が用意したNPC。つまりコンピューターがあやつっているキャラクターらしく、都の鬼門にある彼女の屋敷を訪れるプレイヤーたちにたいしていろいろとシナリオを解くためのヒントを教えてくれたりする。霞丸も何度かシナリオ解決のための重要な示唆をもらったことがある。
 それにしても不思議なのは、月姫が『なにか勘違いしたように美人なキャラクターなのだ』という噂があることだ。だそうであるという伝聞体なのは当然で、そのキャラクターは常に御簾の裏にいて人前に姿を見せることないのである。
(それに、キャラクターの顔グラフィックがアップで出るわけでもないのに美人もなにもないと思うんだけどな)
 霞丸のプレイヤーは、モニターに向かいながら、ついこぼしてしまった。
 しかし、そんなことをいいながら彼女のキャラクターの手の中には、その姫にあてた(ふみ)――手紙がある。
(現実じゃあ、あいつに『好き』って言えないくせに、ゲームの中なら積極的にラブレターを書くこともできるなんて、わたしもバカよね……)
 はずかしさと、そしてさびしさを覚える。
 目的の屋敷をマップ上でクリックし、移動をオートにした。ふたりのキャラクターはそこに向かって歩きだす。
 画面上のシナリオ名が「無名帖」となった。これで霞丸たちはシナリオからフリーとなったことになる。
 モデルの歩き方をサンプルにしたというだけあって検非違使の霞丸は凛々しい。あとを追っててくてくとつきそう千鳥は、ときどき転びそうになったりしてかわいらしい。
 そのあいだにプレイヤーたちはコーヒーや紅茶を呑み、お菓子をつまむ。
 突然、モニターに付属されたスピーカーから悲鳴があがった。
(近い!?)
 霞丸のプレイヤーはあわててオートを切って、マウス操作のマニュアルに変えた。
「警告音ってことは、またPK(プレイヤー・キラー)でしょうか?」
 プレイヤー・キラー。
 ネットゲームの創世紀の時代から問題となっているプレイヤーキャラクターによるプレイヤーキャラクター狩りのことである。わかりやすくいえばプレイヤーがゲームの世界でする強盗、おいはぎ行為のことだ。
 現実の世界で、ひとがひとを殺すようなもので、モラルとしては大変な問題があるのだが、実際にひとの生命が奪われるわけではないので、その悪辣なプレイヤーがゲームから追いだされることはない。それに、そんなプレイのやりかたもあるのだといわれれば、たしかにその通りなのだ。
 もちろん、だからといって精根かけてて成長させたキャラクターをよりにもよって人間があやつるキャラクターに倒されるなど不幸である。まさに襲われる側にとってそれは災難でしかない。
 そんな状況をアルケミア社の側でも放置するわけにもいかず、HEIANでは襲われたキャラクターが警告の悲鳴をあげ、まわりのプレイヤーに注意をうながすことができるようになっている。
「あ、いました!」
 千鳥は、脇の小路の影で数人のキャラクターに襲われていた、町娘らしきキャラクターを発見した。
「検非違使だ。そこまでにしろ!」
 現実には、こんな風にはあらわれはしなかったろうが、そこはそれ。霞丸は見栄をきって町娘と乱暴者たちのあいだにわりこんだ。
 返答は言葉ではなかった。有無をいわさぬ攻撃。霞丸は、いくらばかりかダメージをくらった。
(しまったな。直垂姿(ひたたれすがた)の防御力っていくらくらいだったけ? 都の中を歩くだけだからっておもって、鎧なんて大内裏(だいだいり)にある兵庫寮(ひゃうごりょう)に置いてきてしまったしな)
 霞丸が数人がかりで襲われる。
(どこまでもつ?)
 自分が襲われているが、それは自分ではない。
 ゲームゆえの二重の自己。霞丸という名前の第二の自分。つまるところ、それは他人である。肉体的苦痛が、そのまま本人にフィードバックするようにでもならないかぎりプレイヤーは、そのキャラクターを自分だと認識しきれないのかもしれない。
(邪神復活を阻止するシナリオをやっていたから、タフな戦闘が多かったし、おかげでレベルも高いから大丈夫だとおもうけど……)
 冷静に見つめる。
 やはり体力ゲージの減りはひどくはない。
(ラッキー!?)
 ゲームらしいところといえば、らしいところである。霞丸のレベルが異常に高いので、たこなぐりにされたわりにはダメージをくらっていないのだ。
 こうなれば、
(こっちのものよ!)
 である。
 霞丸は太刀を抜く。
 いくらか攻撃を受けるだろうが、たかがしれている。しかも、こちらの武器はメインのシナリオにも絡む妖怪ともやりあわねばならないために、あちらこちらで情報を集め、月姫に助言を受け、手にいれた太刀だ。名刀工、三条宗近が稲荷大明神を相槌として打った最強クラスの霊刀である。
 ちんぴらごときに負けるはずはない。
「正義は我にあり!」
 霞丸は太刀を振るった。
 一撃必殺!
 群盗どもをばったばったと倒していく。
 時代劇の主役が殺陣で敵役を倒していく感覚だ。
 最後のひとりを打ち倒すと、主催者側が用意した死体回収係のNPCである黒子たちがあらわれて、それを片付けた。倒されたPCたちは、このまま金払いのいかんによってキャラクターの復活をしてくれる拝み屋のところに連れていくのだ。
「さすが鞍馬山で大天狗さまに鍛えていただいただけありますね」
 あたりがきれいになると千鳥が近づいてくる。プレイヤーのうれしそうなようすがモニターの文字列からも読み取れる。
「ありがとうございます」
 こちらもまたハートの記号が使えるのならば、ハートマークが乱舞しそうな喜びようがその文章からひしひしと感じられる。
「よかったな。あのような不埒なやつらもいるから気をつけるのだぞ」
(うう。かっこいい!)
 タイピングしながら、霞丸のプレイヤーはわずかな愉悦感と、
(あの人もこうなんだろうな……)
 ちくりとした胸の痛みを感じた。
「この子が死んじゃったら友達にひろってもらおうかとおもったんです」
 気楽なようすで少女の姿をした記号は、そんなことをいう。
(死んでしまったらか……)
 この相手は、自分がどんなことをいっているのかわかっているのだろうか?
 気楽に死を口にすべきでないといっているのではない。それが、あまりにも現代的な返事だと思ったのだ。たしかにヴァーチャルリアリティのなかの死は軽い。復活の呪文ではないが、拝み屋に大枚を払えば復活できるこのゲームシステムのなかではなおさらのことなのかもしれない。
 それに、そのキャラクターを復活させないまでも、別のキャラクターも登録できるので衣装を着替えるようにプレイヤーたちはキャラクターを変えていくこともできる。
 たいていのプレイヤーなら、それくらいの醒めたやりかたくらいできるだろう。
 キャラクターという人格は衣装であり仮面なのだ。
 だが、そこまでプレイヤーとキャラクターとは乖離した存在なのだろうか?
 HEIANのなかでは、こんなプレイをする者たちがいる。
 妖怪として登録しながら人間の味方になったといって妖怪を狩る者たちや、その反対に人間でありながら弱い妖怪たちを守るために人間たちと戦う者たちだ。
 または、つぎつぎとキャラクターを変えながら、なにをするでもなくゲームの世界を放浪しつづける者もいる。
 現実の人間が本当の世界で、そのようなことをやるのならば相当の覚悟が必要であるだろうし、もし、なぜそのようなことをやるのかの理由のひとつひとつを探求していくのならば、文学的なテーマになりそうなものであったが、このゲームにおいてそんな追求をするものはあらわれようとはしなかった。
「これはゲームじゃないか!」
 というのが、そんなプレイヤーたちの免罪符である。
 ゲームのキャラクターとは往々にしておもちゃでしかないのだ。
 たとえば千鳥。このキャラクターもプレイヤーにいわせれば、
「同人誌でやおい小説を書くためにつくった子でね。基本的に受けなんだ。でも霞丸が攻めてくれないから、たぶん千鳥は受けのフリをした攻めなんだ!」
 ということになる。
 千鳥のプレイヤーにとって、このキャラクターは、けっして第二の人格というほどの価値があるわけではない。半完成品のプラモデルに自分の好きな色をぬった人形のような存在なのだ。あるいは、小さい頃やったお人形さん遊びをゲームというシステムを使ってやっているのかもしれない。
(だったら――)
 と霞丸のプレイヤーは思う。
 HEIANの主催者であるアルケミア社は、雑誌のインタビューで『このゲームは未来にたいするひとつの実験なのです』と発言しているのも、それと関係しているのかもしれない。将来、ひとが単なる医療補助機具ではない完全な擬体を手にし、それが平凡なものとなった暁にはゲーム世界でもそうしているように、かれらは、その肉体を服と同じように着替えていくであろう。
 そんな皮肉をアルケミア社は件の発言の裏にこめたのだろうか。
 あるいは服をかえるように擬体を変え、ひとはやがて運命すらもやすやすと変えていってしまうようになるのだろうか。
(そんなはずはないもの!)
 と思いながら、心のどこかで女というこの肉体をきらって、だからこそ霞丸という別の人生をこのキャラクターに託している自分に、ふと思いが重なる。
 と、そんな時。きっちり三回、携帯電話の呼び出し音がして、切れた。
 物思いにふけりすぎてしまったようだ。
「霞丸さま、どうしたんですか?」
 すでにさきほどの女は、その場にはいず、ただ千鳥のセリフがさびしげなようすでディスプレイの会話ウィンドウに浮かんでいた。
 さきほどの携帯音は相方の呼び出しだったのだ。
「あ、すまん」
「どうしたんですか?」
「すこし考え事をしていたんだ」
「月姫さまのことでございますか?」
(そう思っちゃうのかな、やっぱり……)
 ひととひとのコミュニケーションとは奇妙なものである。
 人間は自分の経験と知識からでしか他人を判断しない。いや、できない。見も知らぬ相手を語ることが愚かだといわれるのと反対の理由で、ひとはその知人、友人さえも自分の知る範囲でしか理解することはできないのだ。
 しかも、その相手の今の気持ちを判断する重要な要素である表情が読み取れないとき、電脳の海の対岸にいる、姿形も見えぬ相手に向かって投げかける言葉とは、どこか闇に向かって語るようなむなしさと不安がつきまとう。
(幻想に恋し、恋するあわれなれ……ってね――)
 いつか、コンピューターを得意とする同じクラスの男子生徒――憎からず思っているヤツとそんな問題を語り合ったとき、その彼がいった言葉だ。
「それとも柳沢くんのことなのかな?」
 どきりとした。
「こら!」
「あ、すみませぬ。つい、うつつのことなぞを」
 聞こえるわけがない千鳥のプレイヤーの笑い声が頭のなかに響いた。
 友人には秘密を打ち明けているとはいえ、いまだ告白できないひとのことを、こうもはっきりと、しかも文字でみせられると、不思議なほどの驚きを覚える。
「でも本音モードね」
 千鳥のプレイヤーがタイプした。
「そういうことは電話でやってほしいな」
「じゃあ、いまからかけようか?」
「やだ! ゲームしながら電話できるほど、わたしが器用じゃないのは知ってるでしょ? そのための携帯音三回のお約束なんだから!」
「はいはい。って……な、なんでございましょう?」
「なにって……ああ、すごい牛車の数だな!」
 チャット・ウィンドウから目を外すと、いつのまにかモニターいっぱいに渋滞かと見紛うばかりの牛車がならんでいた。グラフィックボードにも、かなりの負担をかけているらしく、霞丸たちが動くたびに、ちかちかしているのはご愛嬌というところだろう。
 ひとりの検非違使が声をかけてきた。
「こんばんは霞丸さん」
 仲間の名前がチャット・ウィンドにあらわる。
「やあ。すごいひとだかりだな。なにかあるのかい?」
「噂を聞いていませんか?」
「どの噂をだ?」
 ゲームなどをやっていると真偽不明な情報だけは手にはいる。
「月姫が実は妖怪でかれらの住む異世界。つまり、月世界と関係があるって話ですよ。それで今宵、月に戻るって話があるんです」
 まるで竹取り物語のような話である。
「それで月姫がさらわれるのを見物するために、こんなにひとが集まっているというわけか?」
「らしいですよ。ただですね。連れさらうとする連中、それにそれを阻止しようとする我々のような者たち。そこまでならわかるんですが、なにか団子団の連中もからんでいるようですよ」
「団子団って、あの『われらに花見を! さもなくばどんちゃん騒ぎを!』って合言葉の連中ですか?」
 千鳥が驚く。
 むりもない。メインのシナリオの近辺で遊んでいたので、そんな一団がいるなど噂でしか知らないのだ。
 団子団。この冗談で名前をつけたにちがいない一団は、HEIANでどこまでの自由度があるかを試すことをゲームの楽しみとしているプレイヤーたちによって作られたグループであるという。現代科学の技術をどこまでこのゲーム世界で再現できるかを試しているという話で、平安時代を舞台としているはずなのに月に別天地すら作っているという噂があるほどだ。当然ではあるが主催者側でも扱いに困っているらしい。
「まあ、ひとが集まればバカなことをしでかす連中があらわれるのは、なにも現実に限った話ではありませんからね。それで検非違使らしく見回りにきたんですよ。霞丸さんのところにも長官からメールが来ませんでしたか?」
「来ておるさ。それで、ここにやって来たわけだしな。それでは、わたしは中の方を見てこよう」
 霞丸と千鳥は、その屋敷のなかにはいっていった。
「すごい!」
 まず、それが千鳥の素直な反応だった。
「そうだな」
 霞丸も同意する。
 うじゃうじゃとキャラクターが月姫の屋敷に集まっていて、まるで祭りかなにかのようだ。あるいは現実とはちがって、このゲームの世界では毎日が祭りのようなものなのかもしれない。
「こら!」
 そこで、なにやらやっている二人組みがいた。
 職人技としかいいようがないグラフィックで描かれた庭にはしごをもってきて、剪定用のはさみでなにやら木を切っている。それも日本庭園がそうであるように自然なようすにきればいいのに、わざとなのか直線に切っている。まるで西洋庭園だ。
「なにをやっているのだ?」
「日本庭園でどこまで西洋庭園が再現できるかやろうと思って試しているんだよ」
 みじんも悪気のなさそうな返答がきた。
「やるんじゃない!」
 ぽかりと殴りたいのを我慢がまん――やったら、さきほどの野党たちのように一撃である――かわりに言葉の暴力で応じる。
「そのような奇妙なふるまいが許されるわけがあるまい。それに、お前らは庭師とも見えぬ。勝手に入ってきたに相違あるまい。ここは月姫殿の屋敷であるぞ。下賎のものがはいってよい場所ではないぞ。帰れ! かえれというのだ!」
「なんでだよ!」
「いいじゃないかよ。好きなことができるのがHEIANの特徴だろ。他人に人様のゲームのやり方を文句いわれる筋合いはないぜ」
「そうだそうだ。誰にも迷惑をかけてないんだからいいじゃないか!」
 不遜には不敵で返された。ならば正論。
「現実と同じだ。自由にもおのずから範囲がある。自由と無法は別物だ。おまえたちがやっていることは自分勝手というものだ」
 本当の世界なら女の身で男とこんな風に言い合うことは不可能だろう。
 いや、性格が性格ならできるかもしれない。
 しかし、
(自分の性格じゃあムリだろうな……)
 霞丸のセリフをタイプしながら、そのプレイヤーはため息をついた。
 現実の彼女は、ここまで攻撃的な饒舌はもっていない。だが、どんなに人前でしゃべらないからといっても、その心の中までもが口数が少ないとはかぎらない。その心の内は意外とおしゃべりであるということもあるのだ。
 そんなことを考えていると、画面上では霞丸に向かって、
「やっちまうか?」
「殺るか?」
 男どもが、まるでなにかのホラー映画ばりにはさみを武器にして近づいてきた。
「ならば、やるかね?」
 太刀を抜き、かれらの植えた木を一刀両断してみせ、かまえる。
「あ、その刀は……すみません」
 それを見たとたん、相手は下手にでた。
「いやあ、わたしが悪うござんした。いやあ、だんなは強い」
 などと、まるで太鼓持ちか落語家のような軽い調子でいうと、かれらはそのままその場を去って行ってしまった。別の場所で、またなにをやるかわかったものではないが、いまはよしとしよう。
「さようなら〜」
 と千鳥が手をふると、相手も手をふってこたえている。
 よくもたがいに、そんなマニュアルにも載っていないようなコマンドを捜し出したものだ。
 やがて、千鳥はくるりと振り向いた。そして、沈黙。
「なにか言いたげだな……」
「霞丸さまの口調が江戸時代のお役人さんみたいで……」
 どうやら、さきほどの間は、千鳥のプレイヤーがインターネットの向こう側で笑っていたためであるらしい。
「しかたあるまい。本当の平安時代の言葉などわからぬし、また源氏物語をひもとき、それをもとに話してもよいが、それではなにを言っておるのかわからぬではないか。それになにより、そのようなことをしたところで嘘の言葉づかいには変るあるまい?」
「エセ、えせ、似非!」
 千鳥が、こんどは小躍りしてみせた。
 本当によくもこんなアクションまで見つけたものだ。あるいは、どこかのホームページに隠しコマンドの紹介があって、そのページを発見したのだろうか。
「いつもいつも、おもしろいことをやってくれるな」
 霞丸があきれているというのに、
「せっかくコマンドがあるんだから使ってみたくて」
 と千鳥は楽しそうだ。
 さすがに霞丸がため息をつく方法はないだろう。
「さて、月姫に最後のあいさつでもしてこようか」
 そう打ち込んで、
(なんだろう……)
 この胸を締めつけるような痛みは。
 まさか恋とはちがうものだろう。いくら霞丸が男でも、プレイヤーの自分は女だ。それに、彼女にはマンガのキャラなどの幻想に恋する趣味はない。ないにもかかわらず、この気持ちのたかぶりはウソではない
(柳沢くん……)
 この胸のうずきはデジタルでも幻でもない。
 あるいは罪にたいするうしろめたさなのかもしれない。
 月姫に近づいたのには、不埒な計算があった。
 このゲームにはキャラクター同志の結合から生まれる二世代キャラクターが存在し、プレイヤーのキャラクターたちが結婚すると、ふたりのキャラクターのデーターをもとに新しいNPCが産まれるという噂がある。
 それが事実であるかどうかを確かめたかったのだ。
 まさか男同志のあいだで子供が産まれたりはしないだろう。だから千鳥には、そのことを言ってはいない。だが、もしそんな生物学的にもありえないないことがゲームだからという理由だけできるとしたら、もっと伝えることができない。そんなことを千鳥のプレイヤーが知ったら、彼女を狂喜乱舞させることになってしまうだろう。それに、そんなことができるのならば千鳥のことだ。裏サイトからでも怪しげなプログラムを捜しだしてきて、むりやり霞丸のデーターを抜き取って、手を加え、
「千鳥と霞丸の子供だよ!」
 と、ある日、見知らぬキャラクターを連れてきて言いだすかもしれない。
(それは、なしだからね。くわばら。くわばら)
 霞丸のプレイヤーはつくづく、そう思うのであった。
 さて、屋敷に入っていくと、思いのほかひとは少なかった。屋敷のまわりや庭には人だかりができているのに寝殿造りの屋敷のなかは静かなものである。つまり、
「野次馬だけは多いですね」
 ということなのだろう。
 だが、それにも別の理由があったようだった。
 ふたりの脇をたくさんの黒子たちが駆けていく。悲鳴の警告音が鳴りはじめ、しばらくたっても鳴りやまなくなってしまった。刀がぶつかりあい、魔術や妖術が飛びかう効果音がする。
(!?)
 霞丸は太刀を引き抜いて用心ぶかく、あたりを見まわした。プレイヤーも緊張しながら画面全体を見つめる。この状況には身に覚えがある。
「だれが戦っているのでしょうね?」
「わからんな」
 それは、いくさや大がかりな捕り物などのときによく見かけるようすであった。
「ひょっとして月姫さまになにかあったのでしょうか?」
「ひょっとしなくても、そのようだな」
 霞丸の太刀が、ふたたびふるわれた。誰かの首が飛ぶ。人波がおしよせてきてくる。いきなり乱戦に巻き込まれてしまった。ぐちゃぐちゃとキャラクターが画面いっぱいに入り乱れ陰陽術やら妖術が画面中で炸裂し、ちかちかと明滅する。
 そこには
「妖怪さんたち!」
 がいるし、それと戦う人間の姿もある。
 死体となって転がるひとを黒子たちが回収してまわっている。
 なにが、なんだかわからない状況である。ともかく自分にふりかかってくる火の粉だけはうち払わねばいけないだろう。
 とにかく、マウスをクリック、クリック、クリック!
 ついには霞丸のプレイヤーの頬を汗が流れ落ちた。
 気がつくと、霞丸のまわりには死体の山ができていた。
(ううぅ。なにか罪悪感が……)
 誰かと会話モードを開いて、なにがなんだか説明を受けたいが、と思っていると三匹の妖怪たちが近づいてきた。
「きさま!」
 突然、友好的ではないメッセージがきた。
「何者だ?」
「何者だと!?」
 怒っているのが、文章からひしひしと伝わってくる。
「もう忘れてしまったのかよ。さっきは世話になったばかりだっていうのに」
(?)
「まだ気がつかないか。さきほど貴様にやられた強盗だよ!」
(そんなのキャラクターが違うんだから、わかるわけがないじゃない)
 と思うものの、相手の怒りもある面ではもっともだ。
「なるほど、さきほどの夜盗どもか!」
 こうなれば、いまさら下手にでても許してはもらえないだろう。
(ならば、ここは男らしくいくしかないか)
 女の身で霞丸のプレイヤーは覚悟を決めた。
「俺達のかたき!」
 三匹が飛びかかってきた。猛攻であった。さきほどもそうだが反射神経という点では霞丸のプレイヤーはかれらに勝てないらしい。
「疾風乱舞!!」
 三匹が霞丸を中心にしてつぎつぎとぶつかってくる。
(必殺技ですって!?)
 いっきに霞丸のダメージがはいった。
 ヒット・アンド・アウェーの攻撃をくらっているうちに、霞丸のヒットポイントの五分の四が削られてしまった。ここでもまたレベルに助けられた。
「やってくれるな!」
(きついよぅ。もうやめたいよぅ)
 言うことと思うことは別。はてさて、どうしたものか? ともかくキャラクターを動かし、壁を背にする。
(あと一発でもくらったら終わっちゃうじゃない!)
「これで最後だ! いくぞ疾風迅雷!」
 三匹の妖怪たちが一列にならび突っ込んできた。
(チャンス!)
 妖刀に気をこめ放つと画面が一瞬、かがやき、太刀から龍があらわれると、三匹にぶつかっていった。あとには、マンガのようにぶすぶすとこげたまま立ち尽くしている三匹の妖怪がいた。白旗をたて、ばったりと倒れる。じきに黒子たちがやってくるだろう。
「龍神降臨!」
 霞丸は太刀を腰に戻した。
(ごめんね。必殺技をもっているのは、なにもあなたたちだけじゃないのよね)
 それにしても、「俺達のかたき!」とは、おもしろい表現である。親兄弟や友ではなく自分自身の別の人生のうらみを返すとは、ゲームのなかの二重、三重の人生だからこそでてくる言葉だ。
 ひとは周囲の環境によって性格や文化を作り出すものである。
 もし、このさきひとが電脳の世界に心を封じることができる(すべ)を発明し――すなわち人格をコンピューターに移し変えることができるようになり、魂の不死性を手にいれたとき、人類は同じような変化をするのだろうか。
 俳優が舞台の上でさまざまな役割を演じるように、ひとは人生をつぎつぎと変えていくほど身軽な存在になるのだろうか。あるいは、その瞬間こそが人類のつぎの生命体への進化を手にするときなのだろうか。
 そして姿形どころか、その性格というものまでインスタントに変えられるようになったとき、ひとはひとをどんな理由で愛するのだろうか。いや、現在となんら変わらないのかもしれない。ひとの愚かさも、はかなさも、そして賢さもまた変わったりはしないのかもしれない。
 さきほどのことといい、目の前の狂乱といいそれがその例証なのだろう。
「月姫さまをお連れしろ!」
 妖怪たちが叫ぶ。
「月へ向かう船を用意しろ!」
「待て!」
 外にいた検非違使たちが乱入してきた。
 あいもかわらず騒乱はつづいている。
 ヒットポイントのなくなった霞丸たちは後方に後退し、事態の推移を見守っているが、策を練ってきたらしい妖怪のプレイヤーたちの方が有利であるようだ。
 すでに画面上は妖怪たちのグラフィックでいっぱいになっている。
 そして、その背後の御簾の裏には月姫が鎮座したままの姿でいる。
 それにしても、なぜ月姫はなにもいわないのだろうか?
(やはりNPCなのかしら?)
 体力回復のためにアイテムを使用しながら、霞丸のプレイヤーは解しかねていた。
「どうするんですか?」
 隠れ身の術でも体得しているのか、安全になったとたん千鳥が戻ってきた。
「さてと、どうしたものか?」
 検非違使の長官のプレイヤーからメールを貰ってここにきたのだが、それ以上の理由はこれといってない。たしかに月姫に手紙を渡すという目的もあったが、こうなってしまうとはなしは別である。
(どうしようかな?)
 この混乱ぐあいを見ていると、面倒はごめん。という看板をかかげたいくらいだが、そうもいくまい。
 ながめているうちに人間側の敗色が濃くなった。隙をついて、妖怪たちの一団が月姫をさらっていく。
「霞丸さま!」
 千鳥が叫ぶ。
 心が決まらない。
 あるいは月姫を追った方がよいのだろうか。
 これが、ふつうのRPGならば攻略本の助けを借りることができるし、どこかのゲーム専門のホームページの掲示板にでも「どうやって解けばよいのでしょうか?」と書いておけばよいのだろうが、いまはそんな余裕もない。
 それに、いままでシナリオ解決のヒントをくれていた月姫はいない。
 いま決心しなくてはいけないのだ。
(正解はなに?)
 だが、現実には結果と可能性としての正解しかないように、ネットワークゲームの場においても正解とは、実にあやふやな概念でしかない。
 ふたつの選択しかない。追うか追わないかである。そのどちらが正しいかなど誰にもわからない。ただわかっているのは、追えばこんどこそ霞丸が死ぬ可能性が高いということだけだ。
 どうしても現実的な計算をしてしまう。持ち金をチェックする。
(ええっと。拝み屋に頼むと復活する時、持ち金が半分になっちゃうのよね。どうしようかな……)
 どうしてもシナリオのつぎの戦いのためにもほしい鎧があるが、いまの持ち金ではぎりぎりで買えるかどうかなのだ。
(ここで死んじゃうと買えないのよね。でも、でも――)
「なにをしているんですか!」
 千鳥がせかす。
(わかっているわよ。わかっているけどね……)
 さきほどの妖怪たちとの戦闘がそうとう身に染みた。
(どうする?)
 迷いの糸はいよいよこんがらがる。
 千鳥がそれを一刀両断で断ち切った。
「柳沢くんなら、そんなうじうじとしたことをしないんでしょ!」
(あ……そうか――)
 彼女の思い人は、そういう人間なのだ。
「わかった」
 初志を貫徹をしよう。
(霞丸は霞丸。わたしとはちがうんだ……)
「こちらです」
 千鳥が案内する。従者の特別能力としてひとを追う才があるので、こういうことは得意なのだ。霞丸も太刀を抜いて、そのあとを追う。
 ふたたび乱戦の音がしてきた。
 妖怪たちが、なお迫る人間たちと戦っていた。しかし、月姫の姿はない。
(どこへいったの?)
 そこへ、先刻の剪定バサミをもったキャラクターたちが近づいてきた。
「なんじらは?」
「さきほど、あなたに叱られたふたりですよ」
 ひょうひょうとした返答がきた。
「日本庭園を西洋化しようぜ計画のメンバー!」
 霞丸のプレイヤーは、じっと目で画面を見てしまった。
「あ、ウソですからね。理由はたぶん後でわかりますよ」
 表情など読み取れるはずもないのに、ふたりは早々にあやまってきた。あるいは、すべったギャグであったことに本人たちも気がついたのかもしれない。
「団子団としては、この状態は許しがたいものがあるんですよ」
「団子団として?」
 こうも簡単に正体を打ち明けられるとは意外であった。
 いつあらわれたのか、陰陽師のキャラクターが近づいくる。
「お前は?」
「たぶん、あなたの想像する通りの者ですよ――今回の騒ぎの一因が自分たちにあると思いましてね」
 団子団の長は言う。
「今回の騒ぎ?」
「月姫を月に連れていこうとする不埒な連中があらわれた件ですよ」
「ああ……」
 としか言いようがない。
 霞丸としては巻き込まれただけで、なにがなんだかわからないのだ。
「それにしても検非違使の方とお見受けしますが、あまりよい策を練ってきたとはおもえなせんな。長官殿には、内々のうちに今回の件に関しては御連絡申し上げてあったはずですが……」
「そこまでは聞いていないな」
(あんにゃろ)
 一度だけOFF会で顔をあわせたことのある長官のプレイヤーのにやにやとした顔が頭をよぎった。真相を隠し、プレイヤーを事件に巻き込ませ、そして自力で解決するしかない状況にもっていかせる。そんな陰険な策を好む男なのだ。
「長官はあるいは何かを企んでらっしゃるのかな?」
「さあ」
 世の中のひとに対する評価とは意外と同じようになるものらしい。同意はするが、それだけではさすがにまずいだろう。
「戦いの時、背を貸すにはいい男なのですがね」
 霞丸はとりあえずフォローをいれておいた。
「しかたないですね。手短に話しておきましょう。我々は月巡帖というシナリオをプレイしている者です。あなたはこのシナリオ名を聞いたことがありますか?」
「知らないな」
「そうでしょうね。本当でしたら、わたしたちのやっているシナリオはメインから外れたサブもサブ。アルケミア自慢のシナリオ・ジェネレーターがわたしたちのために作ってくれた特別なものです。ちょうど概念的にはメインシナリオという木の枝も枝。それどころか葉っぱのようなものだったはずですからね」
「葉ね……」
 たしかに、HEIANのシナリオ構造は木に似ている。メインシナリオという太い幹から、さまざまなサブシナリオの枝葉がのびているという構成になっているのだ。
 メインシナリオは霞丸も参加している人間、妖怪共通の悪である邪神を倒すというものであり「天風帖」という。また、そのメインのシナリオの脇にあるサブシナリオはきわめて高い自由度を有していて常時シナリオジェネレーターによるサポートがある。つまり、必要に応じて個々人むけの目的と、それにいたるまでのシナリオが必要に応じられて作られているのだ。
「実は、わたしたちは、この世界でどこまで現代技術を再現できるか? ということを試していたのです。アルケミアのプログラムの限界を確かめたかったんですよ」
「プログラムの限界?」
「現実はどこまでゲームのなかで再現可能なのか? それに興味をもったのですよ。いえ正直なことを申しましょう。ただ主催者であるアルケミア社の鼻をへし折ってやりたかっただけなのですよ」
(ああ、このひと……)
 霞丸のプレイヤーは、そのキャラクターという仮面の下にあるその素顔が、ほんのすこしだけわかった気がした。古代からつづく錬金術師の末裔だ。コンピューターが普及した現代ではハッカーとかクラッカーという名で呼ばれる(たぐい)の人間である。
(現実の再現か……)
 言われてみれば、そういうアプローチのしかたもあるのだ。
 ゲームはどこまでゲームであり、現実はどこまで現実であるのか。
 そんなことを考えてみたり、ひととひととの関係に思いをはせたことはあったのだが、まさか技術的な分野でこのゲームに挑んでくる者たちがいるとは思いもよらなかった。いや、そんなものなのだろう。ひとは決して、自分が思っているほどに世間を知っているわけではない。
「それで、その挑戦と今回の騒ぎはどんな関係があるのだ?」
「さまざまな技術の再現に成功した我々はついに空駆る船を完成させたのですよ」
「空駆る船?」
「はい。宇宙船といってしまえばよいでしょうが、魔術を使った、まったく別系統の科学だとおおもいください。とりあえず人間が使える妖の技。陰陽術を使ったものでございます。次世代以降のシナリオではなにかしら重要な意味をもつかもしれないでしょうが、今回はお荷物以外のなにものでもないのですよ……」
(また……)
 とんでもないことをしてくれたものだと霞丸のプレイヤーは思った。
「ご心配なく。いまのところ被害は最小限に収まっていますから」
「最小限とな……」
「はい。それが存在すること自体はいまのところ月巡帖だけの問題であって、メインや他のシナリオには問題はおこらないことは確認(・・)しています。しかし……」
「しかし?」
「われらのうちの一部の裏切ったメンバーが、その術を利用して月の都に行くことを画策したのでございます」
「月の都?」
「はい。わたしたちは、それを月宮殿と呼んでおりますが、このさいそのような名前などどうでもよいことでしょう。しかし、問題なのは、かれらがそこに邪神めを呼び寄せせようとしているということなのです」
「ちょっと待ってください。それって……」
「もちろん、そんなことを許してしまえばアルケミアが考えている『感動的な』シナリオなどまったく不可能なこととなるでしょうな。それこそ、このような状況などシナリオのどこにも書かれていないのですからね」
 自分のやっているシナリオが頭をよぎる。
(邪神というと、やはりこの太刀でないと倒せない言われた、わたしたちの敵?)
 じきにクライマックスにはいるであろうメインシナリオの前半部は、休戦協定を結んだひとと妖怪たちが比叡山に荒らぶる神を追い込み、もはや逃げ場がない状態にまで持ち込んでいる。だが、それはこの都のなか――つまり、自分たちがゲームの枠内と信じていた範囲に限ってだ。それがもし月に逃げられるようなことになれば――
「The Endですね」
 ついに横文字まででてきたか。
「気に入らない物言いだが、たしかにそのとうりだな」
「さあ、これでおわかりでしょう? 協力はしていただけますね」
 有無をいわせぬ言い方だ。
「あい、わかった」
 しかし、ここまで事件に首を突っ込んでしまったのだ。吉とでようが凶とでようが最後までつきあってみるとしよう。
 画面上のシナリオ名前が「月巡帖」となった。
「だが、それで月姫の役割とは?」
「月の別天地。まあ、わかりやすくいえばスペースコロニーの運営にぜひとも必要な技術者ですよ。しかもPCでね……」
 ミもフタもない返答だ。
(まったく、月宮殿の巫女くらいの気のきいた言い方だってあるでしょうに。でも、彼女って本当にPCさんだったんだ)
「では、こちらへ!」
 千鳥が呼ぶ。
 マウスを動かす。
 キャラクターたちが動きだす。
「姫!」
 生き残った妖怪たちにかしずかれるように、月姫はしずしずと長い廊下歩いていた。
 十数人ほどの団子団もがんばって戦い、姫を追っていたが、いかんせんそれを遮る妖怪たちとは数がちがいすぎたようだ。
「なんて数だ! 妖怪たちは、持てるだけの兵を投入したのかよ!?」
 たしかに、気持ち悪くなるくらい、画面はキャラクターたちでいっぱいになっている。
「ここで失敗したらゲーム的にも確実に負けですからね」
(月に姫をともなって荒らぶる神を連れていけたから勝ち。できねば負けか……)
「RPGに勝ち負けなどないと思うがな」
「主観の問題ですよ。役割を演じることこそRPGの楽しみだなんていっても、コンピューターゲームばかりやっているひとたちにはわかりませんよ。それでは、お気をつけて」
「気楽にいう!」
 霞丸は乱戦に突っ込んでいった。
 しばらく戦っているうちに、ふたたび屋敷の外へと出た。いつのまにかレベルが3つも上がっていた。
 庭は広い。
(どっち?)
「あっちです!」
 千鳥がいった。
 そちらへと霞丸を進める。
「さすが旦那。生き残っておりましたね」
 ハサミを持った男がいう。
「貴様か? そういえばさきほど庭でなにをやっていたんだ?」
「ちょっと仕掛をね」
 その表情を見ることができるのならば、さぞや愉快そうな笑みをこの男は浮かべていたであろう。
 やがて霞丸たちは、雲に乗った牛車を見つけた。
(いよいよ竹取り物語じゃない!)
 と思うと、それがゆらゆらと空に昇りはじめる。これが宇宙船らしい。なるほど。科学といよりも魔術、妖術といった方が雰囲気である。
「遅かった!?」
「大丈夫ですよ」
(えッ?)
 霞丸のプレイヤーの背筋を寒気が走った。
 いつのまにか霞丸のすぐ脇にいた団子団の長がたしかにニヤリと笑ったのだ。
(錯覚?)
 だろう。
 まさか顔も判別できないような小さなキャラクターが笑うなどということなどありえない。だが、たしかに霞丸のプレイヤーは団子団の長が笑うのを見た。
 彼はいう。
「大丈夫。ヤツらは逃げられませんよ」
 そして、それに答えるようにチャット・ウィンドウに会話が入りこんできた。
「どうして飛ばぬのだ!」
「どうしましたか? 妖怪さん?」
「長か! きさま、いったいなにをやった!?」
「なに、ちょっと妖術を使ったまでですよ」
「妖術だと!?」
「陰陽術をですよ」
 あざけりの笑い声が、スピーカー(・・・・・)からした。いや、そんな気がした。
「説明不足ですか? 屋敷全体を使って呪縛の魔法陣を作ってみたんですよ。さっきから庭をいじっている連中が時々いたでしょ? かれらに魔法陣を作らせていたんですよ。それにしても、意外と効くもんですね。あとでホームページに報告を書いておくことにしましょうか」
「バカにするな!」
 ばらばらと牛車から妖怪たちが出てきた。
「ザコはわたしたちが片付けますから、あなたには空をふさいでほしいですね」
「空を?」
 霞丸は怪しんだ。
「おや、やはりあの長官殿からはなにも聞いていないのですね」
 長が奇妙な理解を示した。
「なんのことだ?」
(なにを知っているの、このひと?)
「その太刀の秘密を知りたくはありませんか?」
 婉曲に長はこたえようとしてるらしい。
(太刀の秘密ですって!)
「そして、あなたのやっているシナリオのクライマックスがどのようなものになるであろうかということを垣間見たくはありませんか?」
「なにをしろというのだ?」
「たいしたことではありません。太刀に隠された力を発動させてもらいだけですよ」
「隠された力?」
「あなたの手にあるもの。それは神の加護でつくられた太刀ですよね。その説明は受けいてるはずです。おもしろい武具です。現実であるのならば神具として珍重され、どこかの神社の宝物(ほうもつ)としてしまわれ、祭りのときにでもちらりと見ることができればよいくらい、たぶん宝物庫から出てくることなどありえないものでしょう。だが、このゲームの中ではそんな神から賜った物さえ、いやだからこそラスボスを倒しクリアーするための重要なアイテムだということでしかないということですよ」
「身も蓋もないな」
「ゲーム攻略に夢を求めてはいけませんよ。そして勝負にも――」
「そんなふうだから、ふつうのプレイができず団子団などを率いているというわけか」
「でしょうね」
 なんの躊躇もなく男は肯定してみせた。
 薄気味悪いヤツだと霞丸のプレイヤーは思った。
 その時だ。
「行け!」
 牛に引かれた車体が空に浮かぶ。軽くなったせいなのか、それとも別に理由があるのかは謎だが、こんどは空中に上がった。
 そして、ふいにコンピューターがキー入力を受けつけなくなった。
 映画的な演出がはじまるのだ。
(鑑賞モードだな)
 太っちゃうかなと心の隅で思いながら、お菓子をぱくり。
 スピーカーから寂しげな曲調の音楽が流れ出してくる。
 ここまでくれば、なにが起こっても驚きはしない。ただただ感心し、なかばあきれるだけだけだ。インターネット上のゲームだというのに、そこらへんのゲーム専門機のメーカなど太刀打ちもできないほどの技術力はさすがである。まあ、その代わりに回線が重くてしかたないのは、いたしかたないところか。
(気に入るかいらないかは意見が別れるところなんだろうな)
 つめたくなった紅茶をすする。
 雲にのった牛車をなめながらカメラは上昇していく。まるで映画のような滑らかなカメラワークだ。空には大きな穴が開き、そこには髑髏の門があり、月に向かって開こうとしていた。
 やがて視線が地上に戻る。ふだん見馴れた画面状況だ。
 入力が回復した。とたん、
「龍神降臨+舞のコマンド!」
 長は命じた。
(なによ、それ?)
 とは思うもの、つい打ち込んでしまった。
(ハングった?)
 画面が急に止まった。
(ちがう。また演出効果か!?)
 朗々とした声がしてきた。
「あまつ風〜」
(霞丸?)
 画面が暗くなり、その真ん中にスポットライトがあたり霞丸が踊りだす。もちろんキー入力は受けつけない。
(能?)
 なのだろうか。
 四方を拝するように霞丸は舞った。
 謡曲なのだろうか。聞きにくいのはハードの問題か、それとも聞きなれぬプレイヤー自身の問題なのか、スピーカーからはなにやら地謡がする。なんと唄っているのか聞き取れない。しかし、ときどきその歌だけは聞き取れる。
「雲のかよい路 吹きとじよ〜」
 つぎの瞬間、スピーカーから、雷鳴が轟いた。
 突如、モニター上に雨がふりだし、そのなかを太刀を抜き霞丸が踊る。
 やがて霞丸は空に向かって太刀をふるった。
「乙女のすがたしばしとどめん!」
 龍神があらわれ、ぐんぐんと上昇していった。
 雷鳴のなかの龍の姿は神々しい。
 いや、そういうカメラワークになっているのだ。映画だったら、物語は、いまたしかにクライマックスを迎えた。
 月姫の乗った牛車が天上の門に入っていこうとしている。
 しゃれこうべに似た門が重々しい音とも開く。
 もういちど雷鳴が鳴った。
(な、なに?)
 雲間にのぞくその門の向こう側には月があった――異形がいた。
 月の姿に重なったそれは、漠として確とした姿は持ってはいない。それはゆらゆらとゆらめきながら、しかしたしかに悪意を持った表情ですべてをながめていた。
(邪神?)
 ゲームのなかのできごとだというのに、それはあまりにも無気味だった。ここまでくると技術の世界の話を越え奇跡ですらある。デジタルの絵の描き出した笑みにはたしかに感情があったのだ。
 龍神が牛車を手につかみ、それとにらみあうと、火を吐いた。
 そして――しんとなった。
 まるで夢から醒めたように、なぜか音すら聞こえなくなっていた。
 もはや雨もふっていない。牛車も地上に戻っていて、妖怪たちの姿もない。なにもかもがゲームをしながら見ていた夢のようで、いまようやく正気に返ったのではとさえ思えてくる。
 だが、それも思い過ごしのようだ。
「すごい。本当にあのコマンドって存在したんだ!」
 千鳥が汗を流したフェイスマークを使用したようなセリフを連発していた。もし、この言葉がなかったのならば霞丸のプレイヤーは、ときどきやってしまうように、プレイしながら居眠りしてしまい夢でも見たものだと信じたことだろう。
「ウソをついてどうします? それにしても、このコマンドを知ってっているということは、うちのサイトをのぞいていらっしゃる方ですね」
「あら、あのホームページの管理人さんなんだ。こんばんは」
「こんばんは。こんなところでお会いするとは……意外でもなんでもないですね」
「そうですね」
 ふたりは何をいっているのだろうか。霞丸が言葉をはさむ。
「どういうことだ?」
「簡単なことです。本当ならば、これからのプレイ具合によって、あなたが情報を集め、あるいは使えるようになったかもしれない邪神封じの技を使った。それだけですよ」
「邪神封じの技?」
「だから、本当はここにいない邪神の姿が見えたのですよ」
「では本当にあれが……」
「ええ。荒ぶる神ですよ。でも、いまの様子だと、その太刀だけでは封印することができないようですね。やはり三種の神器が必要というわけですか」
(このひと!?)
「三種の神器などというゲーム中のどこのシナリオでも語られたことのない単語がでてきて、なぜ知っているのかとでも言いたげですね。しかし、世のなかには知らない方が幸せ――いいえ。おもしろいとおもえることもあるとおもいますが――」
 自然、霞丸は足をすすめた。
「おまえはなにを企んでいる?」
「アルケミアを憎んでいるがゆえにとでも答えましょう――」
「憎んでいる?」
 しばらく、なんの返答もなかった。やがて返ってきたのは、
「おやおや、もうこんな時間ですか。そろそろ眠る時間ですね。楽しいひとときをありがとうございました。それではご機嫌よう。また、どこかで――」
 という韜晦した言葉であった。
 長はゲームの世界から去っていった。
(読まれたか)
 さすが、いい勘をしている。霞丸のプレイヤーはいささか殺意を覚えていたのだ。もしこのさき妙なことを口にしたのならば、
(斬る!)
 つもりでいた。男のプレイヤーはそれを感じ取りゲームを終えたのだろう。
(それにしても――)
 いまのはいったいなんだったのだろうか。
 いまや団子団の姿も、ただひとりをのぞいていなくなっていた。
 月明かりがさしていた。BGMが戻ってきていた。
「兵どものが夢のあと」
 月姫が唄っている。
「どうしましたか?」
「すみません。たしか、こんな句があったと思うのですが、最初のところが思いだせないんですよ」
 もし話相手の顔のグラフィックが表示され、それがその時の気持ちにリアルに反応するのならば、それはさぞやかわいらしいとまどいの表情をしていたであろう。
「『夏草や』ですよ、お姫さま」
「ごめんなさい。国語があまり得意じゃないんですよ」
 月姫はいう。
 なんと奇妙なセリフなのだろうか。姫たるものが歌を知らぬとは。それに芭蕉は俳句の大家であり、平安朝の人が好んだ和歌の歌い手ではないではありはしない。
「それで、君はどうしてこんなことになったんだ?」
「団子団の名前の意味がわかりますか?」
「いや」
「団子は食べるダンゴではなく団子虫なんですよ。転じて、虫を意味するバグを意味しているのです」
「?」
「プログラムのバグだって言いたいんですよ」
 千鳥が言葉を補足してくれた。
(罪を告白している?)
「君達は、なにをしたのだ?」
「最初はプログラムの隙をさがして、好き勝手をやり――」
「やり?」
「いつしかプログラムを抜き出し、その解析までしていたのです」
(プログラムの解析ですって!)
「そうして、わたしたちはシナリオの行く末を知った――」
(さきほどの長の言葉か)
「だから姫はおれに、この太刀のことを教えてくれたというわけか」
(遊ばれたんだ、霞丸は……)
「ええ。だからこそ、あなたに太刀を託したのです」
「馬鹿にしている!」
 もし、これが現実だったら霞丸は月姫の襟首をつかんだろう。だが、これはデジタルが織り成す夢幻劇だ。
「そうですか? 好いたひとに活躍してもらいたいと思うのが女の人の気持ちというものではないのですか?」
(すこし、ちがうな。すこし……)
 霞丸のプレイヤーは、そう思う。しかし、なにがちがうのだろうか?
 はっきりとは彼女にもわからなかった。
「それにしても、ここまでくるとゲーム云々を別にして犯罪だな!」
 しばらく間が開き、
「だからこそ、わたしはそのために罰を受けたのですよ」
 と姫はいった。
「自業自得だな」
「反駁はいたしませんわ。傍目には犯罪でしかないことをやったのですから……それに、もう団子団はダメですね。内部崩壊もしてしまい、しかも今回の騒ぎ。シナリオもまだ中盤だというところで門を開くという現象を起こしてしまったのですから。アルケミアのあからさまな介入もじきにはじまるでしょう。遠からずゲームから追放されるかもしれませんね」
「それで長やあなたたちは納得するのか?」
「したくはありませんが、するしかないでしょうね」
 姫はさらっといってのけた。
「それに、これでわたしたちを裏切った人達も気ままなことができないようになったでしょうね。いい気味ですわ」
「いい気味か……よくもゲームでそこまでやる」
「遊びだからこそ、本気でやらないと……思いません?」
「遊びだから?」
 男の子の言い分だなと、なぜか思った。
「ええ。冗談だからこそ本気にやらないといけないんですよ」
「遊びせんとや生まれけん。狂いせんとや生まれけん、か……あの小唄を歌った頃と、我々はまるで変わっていないというわけだな」
(デジタルの平安の御代に、源平合戦の時代の今様を過去のものとして語るか。なんて奇妙なセリフなんだろう)
「そうかもしれませんね。あら、もう時間ですね。それでは、なにかの機会がありましたら……」
 長といい、この娘といい。盗人の足は素早いものらしい。
「そうだな。あなたも、もはやここには戻ってこれないのかもしれないな」
 いつしか霞丸の口調が優しくなっていた。
(あらあら。わたしったら……)
 しかし、月姫は意外な返答をしてきた。
「いいえ。わたしは戻ってきます。月宮殿はどうにかしなくてはいけませんから」
「どうにかしなくてはいけないか……」
「はい――」
 それっきり、ふたりは黙りこんでしまった。
 代わりに、いままで静かにしていた千鳥が、
「眠いよう!」
 と騒いでいる。
 ふと、ふたりは顔を見合わせ、デジタルの記号たちは微笑みあうこともできず――言葉を交わした。
「それでは、今宵は本当にありがとうございました」
「今宵はか!」
「はい。そして、よい夢を見せていただいて――おやすみなさいませ」
(えッ!)
 薄れゆく姫の姿は、たしかにため息をつきたいほどの微笑をたたえていた。
(本当に美人だ……)
 姫の姿が消えた。
(霞丸さま。朝がくれば月は消えていくものなのですよ。幻のように――)
 いつか、ふたりで交わした言葉が浮かぶ。
(幻か――まるで今宵のできごとのように――)
 頭のなかがぼんやりとしている。
(あ、恋文を渡すのを……まあ、いいか)
 もはや、なにもする気もしない。
 時計が霞丸のプレイヤーにも眠る時間をしらせた。
 携帯が五回鳴る。
「時間ですね」
 眠くなりでもしたのか、千鳥がせかしている。
 いつもなら、なんだかんだといいながら、まだしばらく遊んでいるのだが、きょうは疲れてしまった。それに、もう眠い。
「そうだな。それでは――」
「おやすみなさい」
「おやすみ……」
 霞丸もまたゲームの世界から去っていった――少女は、いつしかすこやかな寝息をたてていた――。

 ――朝。
 うつらうつらとしていたら、弟の「朝ご飯だよ」という呼び声と、けたたましい目覚ましい時計の音で目がさめた。
 気がつくと、机にうっぷせて眠っていた。眼前のモニターはHEIANの画面のまま。強制的に電話回線が切れたとメッセージが伝えている。
「あっちゃあ……やっちゃったあな……」
 どうやら昨晩は、ログアウトをした後でコンピューターの電源も落とすの忘れて眠ってしまったようだ。メールの確認だけしてコンピューターの電源を落とす。
 学校に行く準備をして、シャワーをあびてむりやり目をさまそうとして、着替えて、あわててパン一枚を口にする。
「ひってきま〜しゅ」
 眠い目をこすりながら、霞丸のプレイヤー――竹本めぐみは電車に飛び乗る。
 たとえコンピューターが生活のすみずみにはいりこんできたとしても、この登校や出社の大変さというものは変わらないものだろう。時間を守るひともいれば、遅刻ぎりぎりに来るものもいる。
 だから、
「よかった」
 チャイムのまぎわに教室に飛び込んで、ふくよかな胸に手をあて、ほっと、ため息ひとつ。今日もきょうとていつもの日常がはじまるのである。
「おはよう柳沢くん」
「よう。竹本! おはよう」
 特集HEIAN! と書かれたコンピューター雑誌をぺらぺらとめくっていた柳沢士朗がこたえる。
 彼女にとっては隣の席の気になるあいつだ。静かに、だがそのあいさつはたしかに彼女の心の扉をたたいていた。
 手紙がe-mailにかわり、牛車が自動車に変わっても、平安時代に姫君たちが、思い人を目の前にしたとき感じたときめきと、いま竹本が柳沢に感じているドキドキにちがいはない。ひとは変わらない。
 あきらかに理系タイプの人間である柳沢が問う。
「竹本。ちょっといいかい?」
「なに?」
「きみは国語が得意だったよな。雲の通い路吹きとじよ云々って、俳句かなにかになかったけ?」
「雲の通い路……」
 大きく胸が鼓動して、眠気が一気に吹き飛んだ。
「……って、それは百人一首じゃないかな?」
 偶然とは恐い。昨夜のあの和歌だ。
「百人一首?」
「この前、授業で覚えさせられたじゃないって……あッ! この理系、また授業中に眠っていたんだな!」
「国語の授業中って睡眠の時間じゃなかったのかい?」
「なにを言ってるのよ」
 学校の机にいれっぱなしになっている国語の便覧を開いてみる。あった!
「あまつ風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿しばしとどめん 僧正遍昭(そうじょうへんじょう)ね」
「あ、それだ!」
 柳沢は口笛を吹いた。
「でも、どうしたのよ?」
「うん。昨日、ネットであるひとがこの歌をくちずさんでいたんだよ」
「ネットでね……そういえば、わたしは芭蕉の句の『夏草や兵どもが夢のあと』がでてこなくて困っているひとをネットで見かけたな」
「あれ、それって芭蕉なのかい?」
「昨日のひとと同じミスをしているな。奥の細道にある立派な俳句よ!」
「じゃあ短歌じゃないんだな……」
「本当に昨晩のひとと同じね。彼女ったら、短歌にふさわしい場面で、その俳句を口ずさんでいたのよね。たぶん、あなたと同じ勘違いをしたんでしょうね。まあ、夏草というイメージじゃなかったけど、そこはそれ」
 と竹本がくすくすと笑う。
「えッ!」
 柳沢が驚いたように声をあげた。
「どうしたの?」
「きみはHEIANってネットワークゲームを知ってるかい?」
「HEIANですって!? アルケミアのゲーム?」
「そう!」
「知っているもなも、やっているわよ」
「ウソ! じゃあ、きみは霞丸ってキャラクターを知っている?」
 そのとき、たしかに彼の言葉は竹本の心の扉をたたき破ってしまった。まさかという思いと、もしかという不安。とまどいながらも、それを口にする。
「もしかして月姫――さま……」
 それ以上、竹本は言葉もなかった。
「ああ……」
 柳沢もまた声をなくしていた。
 たくさんの驚きと――いくらばかりかの喜びを胸にして――時だけは流れていった。
 空には白い月があった。
 木々の梢が揺れ、風が恋人未満のふたりの制服をさすった。
『天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ 乙女の姿 しばしとどめん』
 風はやさしくも、いましばらく、彼女の本当の姿を現実の世界にとどめてくれたようであった。

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  • たらいさんの作品の中でも、一番お気に入りの作品です。お薦め、お薦め。 -- Guym 2005-03-21 (月) 14:00:37

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