
ブラッドストーン 〜薔薇の指輪〜
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汽笛が鳴り響き、蒸気の音が近づいてくる。
黄金の髪をした女が自転車を止め、ふりかえると、黒い煙をあげて列車が駆け抜けていった。
きょうも、汽車に乗って外国からさまざまな品物や郵便、それにひとびとがやってくるのだろう。
(あのひと、このまえ来た手紙に目を通したのかしら?)
ヴェットリーチェはペダルをこぎだした。
線路沿いの道を駆け、地平線までひろがるなだらかな田園風景を走りぬけると、やがて中世の面影が色濃く残る石づくりの街へとたどりつく。
もっとも街といっても人口一万人にも満たないちいさな都市は、タルスという都市国家の首都であり国そのものであるにしても、あまりにもひなびている。小国家が乱立するこの地域のなかにあっては大きな街だとはわかっていても、人口百万を擁し、昼なお暗い霧の都に生まれ育った娘には辺鄙な田舎の一都市にしかすぎなかった。
季候が温暖であり、風光も明媚なこの地は、学者や芸術家などの静寂を愛するものには最適な土地柄でもあったとしても、まだうら若いヴェットリーチェのような女性には刺激のないつまらない場所にしかすぎないのである。
ただ、そんな娘がこんな場所に居を移したのは、彼女がメイドとして仕える主人のたんなる思いつきからであった。
(いやになっちゃうな!)
とは思いながらも、彼女にとって主は絶対である。
それに、
(どうせ気分屋さんなんだから、こんな生活にはすぐにあきるんでしょうに)
と思えることだけが唯一のなぐさめであった。
駅の構内は異国からかやってきた老いた客や外の世界へ旅立とうする若者たち。あるいは、客に食べ物や花や土産を売る者たちや、外国から運んできためずらしい品物をかかえた行商人などでごったがえしていた。
ヴェットリーチェは人波かきわけながら用事をすませる。いまや顔見知りとなった白いターバンを巻く異教徒の行商から胡椒と香辛料と茶の葉をたっぷりと買い込む。
(野菜はさっき村から買ってきたし、果物は近所のおばさんにもらったのがある。そうすると夕食はパイと野菜のスープかな? あとはあの葡萄酒を……)
などと今晩の献立のことを考えながらホームを歩き、最後にいつもどおり駅長にあいさつにゆく。
(あら?)
駅長が銀髪の青年と言葉をかわしていた。すこし待つかなと思うと、はなしを中断して、向こうから声をかけてくる。
「きょうは夕刻ごろに出発の予定ですよ」
懐中時計をみて、口髭の駅長が叫んだ。
こんな僻地では、一日一回の列車の発車時間、停車時間など、この男の腹づもりひとつで決まるのだ。
「ありがとう」
別に列車に乗る用事もないのに出発時間を確認する。それは、彼女がこの土地にきてからずっとつづく習癖ともいってもよい日課であった。
駅をでてヴェットリーチェは空を見あげた。
なんと青く澄んでいるのだろう――昼なお暗く、霧と煙にとざされたロンバルディアの空を空として二十年近く慣れ親しんできた身には、あまりにもまぶしく、そしていまいましくさえある。この空と同じ空の下に、あの鉄の都があると思うと、不思議なほどせつなく、くやしかった。
(あの場所へ――あの事務所へ戻りたい――)
ヴェットリーチェの心にあの思いがよぎった。
(そして――)
その時である。
「失礼ですが?」
という声がした。
(あら?)
なつかしい言葉である。
「いま駅長さんから聞いたのですが、ロンバルディアの方とか?」
それは故郷の言語であったのだ。
「そうですけど、そのアクセントの癖はフィージアの方で?」
そう声にしながらも、ヴェットリーチェの目を引いたのは胸のポケットにささった薔薇の花であり、わずかな香水のかおりであった。さきほど駅長と言葉をかわしていた男だ。
「いいえ、よくまちがわれるのですけどね、ちがいます。母がフィージアの出自のせいかアクセントがどうしても巻き舌になってしまうのですよ。それにこの薔薇はさっきホームいた黒い髪をした美人の花売りにもらったものでしてね、フィージア政府の高官や議員のようにこれをさしているからって偉くはないですよ。わたし自身はタジスタンという小国の出ですしね」
銀髪の青年はそういうとくちを開けて笑った。
健康そうで歯並びのよい白い歯がひかり、ひとをひきつけるような褐色の笑顔が印象的だ。ふと、その知的な黒い瞳の奥底にヴェットリーチェはじぶんと同類の色を感じ取った。それに、邪気もないようであるし、その言葉を信じてもいいような気がする。
かまをかけてみよう。
「あなたは?」
「あ、すみません。わたくしはウィットネスという新聞社で記者をしておりますポール・ヘンドリックと申します」
ヴェットリーチェは理解した。
(同類というわけね)
「でも、なぜあたしに声を?」
「ロンバルディアの方ならば、エニグマ・ブラッドストーンという方をご存知かと思いまして」
(やはり、そうか――)
「我が
「我が主ですって!」
「はい」
彼女の主人、エニグマ・アーシャス・ロンドバルド・ファン・ジンシ・ブラッドストーン三世はユーリィアにおいてもっとも有名な私立探偵であった。
ロンバルディアの貴族の三男として生まれ、本来であるのならばその出自と特異な才能から警察、あるいは諜報機関にあってしかるべき地位になるべきことが約束されていたにもかかわらず、その生きていることが不思議がられるほどの虚弱な体質なため公務につくことはかなわず市井で従者とともにひっそりと暮らしていくこととなったのである。
しかし、その才能と運命は彼に楽隠居することを許さず、巷間にあふれる奇妙な事件、あるいは各国の思惑が二重三重にからまる陰謀劇に関わり、解決または重要な役割を演じたことは知る人ぞ知ることであった。
もっとも、そのさい受ける賛辞にブラッドストーンは傲慢な態度ながら、
「ぼくの功績の半分は有能なパートナーのおかげですよ」
というそうである。
そんな噂がある以上、
「お会いする前に確認をしておきたいんですが……」
とポールが慎重になるのも無理はない。
「主人の性格についてですか? それはもう根っからの偏屈もののですわ」
その質問に応えるのも聞くのもあきましたという態度で、ヴェットリーチェは笑った。
「ですから――」
と、自転車を引いた女に導かれ新聞記者は何本目かの道を横に入る。さらに、角をまがり、すこし歩いたかと思うと、また角をまがる。中世いらいつづく増改築によって迷宮となってしまった街並みを歩くには、どうしても案内人が必要なようすである。
それに、
「用事もないひとにないこられるのがいやだからっていうんですよ」
召し使いは笑うが、ときどき、あきらかにさきほど通った道と同じ場所を通っていることをポールは見逃さなかった。
(おやおや、さすがに用心深い)
やがて迷宮の果ての建物にたどりつく。
あまりに平凡なたたずまいで、注意深く見ていなければ見逃してしまいそうになる。中に入って急な階段を何階か昇り、特に特徴のない階にでる。そして、いくつもの部屋があるなかで、これまた端でも真ん中でもない部屋の前へゆく。むろん事務所の看板はない。
「ここです」
わずかな間をおいたようなノックをしてメイドは客人を中に招きいれた。
三つの鍵のついた扉を開けると、部屋のなかには、椅子に腰掛けた男がいた。
髪は銀色というよりも、むしろ白く、肌は白いといよりも、むしろ青白い。そして、なによりもまず目をひかずにおらなかったのは、その瞳のあまりの赤さであったろう。
ブラッドストーン――誰が名づけたのか、血の石とはまこと本質をついた命名である。その瞳に魅入られ、あるいは真実を暴かれ、どれほどの血が流されたのであろうか。
「誰かね?」
神経質そうなようすでブラッドストーンは訪問してきた男をにらんだが、すぐに目許をゆるめた。
「フィージアの思想統制局というわけではないようだね」
「思想統制局?」
「なるほど。ユーリィア全土に情報を発信しているウィットネス社の人間でも、あの悪名高い思想統制局を知らない人間がいるというわけか。あの組織は、なかなかの情報隠匿能力を持っているようだな。それにしても、ウィットネス――目撃者という名前がしめすとおり君の社の新聞はよい情報をたくさん仕入れてくれて、いつもぼくの推理の材料となっているよ。まあ、地方記事が弱いのは都会むけの新聞だから、ご愛嬌だろうけどね」
ふむとブラッドストーンは細い指先を顎にあてる。
「おや、なにをぼんやりとして突っ立っているんだね? そこのあいている椅子にでも座ってくれないか。こんな田舎に引っ込んだといってもぼくも暇ではなくてね、考えなくてはいけないことがたくさんあるんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください……」
いきなり会うなりわけのわからないことをたずねられ、そのくせ紹介をする間もなくじぶんの正体を言い当てられると、なにかあるであろうと覚悟はしていても、おどろかずにいられない。
「『なんでぼくの正体がわかったんですか?』かい」
しかも、いいたいことを言い当てられるし。
「推理でもなんでもないよ。いつであったか、ぼくに手紙を送ってきたのは君自身じゃないか!? ポール・ヘンドリックくん」
「手紙を読んでくださったんですか?」
「ああ。だいぶ以前だったけどね。でも、まさか、よりによって
なんにしてもこの段階で主導権はブラッドストーンにあることはあきらかになった。普段のやり方では、この変人から情報を聞き出すのは不可能だろうと判断するしかない。
「それにしても、この状況でよく手紙のありかなんてわかりますね?」
ポールは部屋の惨状を指ししめした。
編集部もかなり物が散在しているが、これほどではない。
読んだのか、読みかけなのかわからない本が机、椅子、戸棚、暖炉などに無造作に投げ置かれ、実験機具や工作機具が部屋の隅に鎮座し、書きかけの紙やら手紙やら紙屑やらが床に散在している。見れば、机の上には新聞と書籍の山がそびえたち、背後の壁には銃弾で刻まれた詩の一編まである。
ここまで荒れていると、感心するよりも他にない。空き巣に入られた家でもここまで物がばらまかれていることはないであろう。
「その方は、こういうちらかり方が好きだったていうんですよ」
やれやれといった口調のメイドの声が隣の部屋からした。
「それは大変で……」
とはいいながらも、なにかひっかかるものを感じた。しかし、それがなんであるのかわからぬままポールは本題にはいる。
「手紙は読んでいただいたんですよね?」
「封筒はどこに行ったかはしらないが手紙は読んでいるよ。なんなら、ぼくの頭脳にはいっているそれをここで読むことにしょうかな?」
わずかに口許をほころばせ、ブラッドストーンは人差し指で頭を数度、たたいてみせた。
「いえ、けっこうです」
ここまで言い切れるということは、記憶に絶対の自信があるということなのだろう。それに、それだけの自己顕示をしてもいいほどの実績を残している男でもある。
「しかし、あれだけではなんともいえないし、質問をしたいこともあるな。それになにより、大切な
そう言われると、鼻孔に甘い香りがはいりこんできた。紅茶がでている。
メイド服に着替えたヴェットリーチェがブラッドストーンの脇に立っていた。
ブロンドの髪に青い瞳、そして白い肌が、その装飾に映える。黒を基調とした流行からは外れた古いタイプだが生地も糸も高価なものを使っているのが一目でわかる。さすが貴族のお抱えといったところだろうか。それに、そんなクラッシクな恰好なのにすこしも野暮ったさはなく、逆にシックな装いにすら見えるのは、彼女の持つ自然なセンスのよさによるものだろう。あるいはロンバルディアの子女の教育のよさなのかもしれない。なんにしろ目の保養には最適だ。
ひとくち紅茶をふくむ。
(いい葉を使っているな。それに、熱すぎもせず、ぬるすぎもせずいい具合だ。でも、紅茶とは――)
いかにもふたりがロンバルディアの人間だとポールは思わずにはいられなかった。
どこであろうとも他人におしつけないまでも、じぶんたちだけは自国の風習を守りぬこうとするがんこさがロンバルディア人なのだ。
(ならば――)
「そうですね。これはフィージアという国家の歴史の裏にもからんでくることですし、最初から――あの国の歴史からおはなしした方がいいですね。おふたりとも隣国とはいえ外国のことですから」
と、はなしを切り出す。
「それはまた大がかりな依頼ですね」
「いえ、手紙にも書きましたように、わたしの依頼はたんなる人捜し――といっても、すでに故人となってしまった人間の正体をさぐってほしいというだけなのです」
「それだったら学者さんのお仕事でしょ?」
「いえ、学者がやるにはいろいろと問題がありましてね。ことの発端はフィージアでの革命騒ぎでした――」
半世紀前、フィージアという国で勃発した王制打破の運動は王家を血祭りにあげ、貴族をも追放し、民衆による政体を生み出し、やがて周辺国と戦うにいたったのである。その後、戦争、内乱、革命、クーデターによりフィージアの政体自体は民主制から帝政、ふたたび王制、そして一党独裁の民主制へとめまぐるしく移行したものの、その革命の精神そのものは各国に伝播し、やがて歴史の一潮流となったのである。
「そして、あれから半世紀。それを記念して我が社では誌面を割いて特集記事を組むこととなったのです」
いつしかブラッドストーンの紅茶から湯気はたたなくなっており、ポールのカップも空になっていた。
「もう半世紀もたつのか……」
ブラッドストーンは感慨深げにつぶやく。
「我々の生まれるずっとむかしのはなしですけどね」
「たしかにな」
「そこで、わたしはひとつの謎に挑むことになりました」
「謎? まさか、最後のフィージア王が実は生きているなんて噂を信じているんじゃないでしょうね?」
「まさか。いくら死体が確認できなかったからといって馬車ごと爆破された人間が生きているわけがないじゃないですか。英雄不死説を唱えるほど落ちぶれてはいませんよ。そうではなく、その暗殺に関わったかもしれない人物についてなのですよ」
「関わったかもしれないか……」
「ええ。確証はないんですが、状況証拠的にはかなり怪しい人物です」
「誰なんです?」
「ゲルツェンという男の噂をお聞きしたことはないでしょうか?」
「ゲルツェン!」
ヴェットリーチェが声をあげた。
「どうしましたか?」
「あ、いえ……あとで――それよりも、おはなしをおつづけください」
「わかりました」
そういいかけると、
「まだ、しばらく時間がかかりそうだね」
ブラッドストーンがよろよろとなりながら立ち上がり、杖によりかかりながら戸棚から一本の葡萄酒をとりだした。
「どうだね?」
「いただけるのですか?」
ぼくはこちらの方がいいとつぶやきながら、手慣れてた手つきで瓶のコルクを抜き、ブラッドストーンは机の引き出しにはいっていたグラスをとりだすと、ぴったり半分だけいれた。その職業に要求される緻密さを生活の部分、部分にまで要求するような動きであるとポールは感じた。
そして、なみなみと注いで、ポールに渡す。
(おや?)
主人の背後のメイドの目許と頬がわずかだが動くのをポールは見取った。
(なんだ? まあ、いいか――)
「さて、まずゲルツェン氏についてお教えしておいたほうがいいですか?」
一応とささやきヴェットリーチェは首をたてにふる。
「ゲルツェン。実は、この名前がはたして本物であるのかどうかはわかりません。偽名なのかもしれませんし他人の名前をかたっていただけなのかもしれません。しかし、そういう人物がいたことは確かです。軍籍の記録も残っていますし、その名前の人物を知っているというひととも会いました」
「で、なにをしたひとなの?」
「委員会の黒幕といわれた人物なんですよ」
「委員会とは、またとんでもないものがでてきたね」
葡萄酒のはいったグラスを高い鼻の下でブラッドストーンはもてあそぶ。
「ええ。フィージア最高評議会――委員会。議員の白薔薇にたいして、それよりも上位であることを示す赤薔薇を胸にさすことを許された人間たちですよ」
ポールも胸の薔薇をもてあそんだ。
「よくわからないのだけれど?」
政治にうといヴェットリーチェが首をかしげる。
「フィージアの唯一の政党であるフィリシアス党の首脳部のことです。現在のフィージア政府内閣といってもいいかもしれませんけどね」
「なんだ。あまりにもったいぶった言い方だから、わたしの知らない秘密結社かなにかだと思っちゃった!?」
たぶん各国政府の陣容よりも、社会の裏にうごめくそのような組織についての方がより詳しいようすの女は、そういって肩をすくめた。
「まあ、秘密結社といえば秘密結社かもしれませんね。前王の暗殺後、突如あらわれて、十中八九まで権力を手中に納めていた貴族派を一瞬にして滅ぼし、政権を奪取。そして、現在のフィージアの礎を作ったのですからね。もっともそのせいで、半世紀前の革命さえ委員会の陰謀によってとりおこなわれたと思っている人間がいるほどですよ」
「過大評価のしすぎだな」
「同感です。王の突然の死を待っていたかのように動いた貴族派を疑うのならばともかく、そのクーデターをすら待って動くなんて、いくらなんでも、そこまで全知全能の存在がいるとは思えませんからね。未来の歴史を知っているのならばともかく、そんなヤツなんていませんよ」
「それで、その委員会とゲルツェンがどう結びつくの?」
「つまり、その委員会を作ったのがゲルツェンではないか? とぼくたちはにらんでいたんです」
「過去形かね?」
「ええ、ああ、いろいろありましてつい――なんにしろ委員会を一時期、裏で操っていたのがゲルツェンと呼ばれた人物であったというのは有名なはなしなんですよ。組織づくりの才覚と陰謀術数にすぐれ、委員会を現在の形につくりあげたといわれている。本国では絶対に検閲にひっかかり報道することができない名前なんですけどね」
「正体なきもの、なんじが名はゲルツェン」
こらえきれず、ヴェットリーチェが謡った。
「どうしてそれを? いえ、先程のようすから気がついてらしたんですね。あなたがたの世界でも知られているかもしれませんが、彼は変装の名人だったらしく、委員会設立時から数々のすがたで語られています。幼い少女であったとも、筋肉隆々の軍人だとも、あるいは痩せた老教授だともね――」
ひと息ついてポールも葡萄酒をくちにふくんだ。
「そして、死後、その死体は焼かれて灰は海に捨てられた。けっきょく最後の最後まで、その正体は不明だったわけです」
「さて、前知識はわかったかね。ヴェットリーチェくん?」
「とりあえずフィージアを裏で操っていたらしいゲルツェンという人物がいたが、その正体はわからなかったというわけですね?」
「そういうことだ。さて、はなしをつづけてくれたまえ」
あきれるほど傲慢な言い方であるが、別に腹がたつとほどではない。生まれついての貴族にとって、命令することは当然の行いなのであり、別におごりやなにやらでやっているわけではないせいかもしれない。
「さて、そういう人物を調べることとなって、わたしは困ってしまいました。資料をあたるにはどうしたらいいか……正直、迷い、とまどい、けっきょくは母方の親戚と自社の特派員を頼りにフィージアに入国しました」
「よく、あの国に入国する気になったね」
「警察に目をつけられるのは覚悟のうえでした。国家権力の前に報道機関の力がどれほどのものかわたしには自信がありませんでしたが、それでも真実を目指すのがわたしたちの職業ですから」
「ご苦労なことだね」
やれやれとつぶやき、ブラッドストーンは椅子に身をうずめる。
「ええ入国するまでが、これまたひと仕事。ニセのパスポートを用意し、つけ髭、かつらにメガネまで使って変装をして――我が社は各国の政府からにらまれていますからね――フィージアに潜む我が社の人間と細工をした手紙で何度かやりとりしてようやく入国」
「まるで、どこかの諜報機関ですね」
「まったく」
ポールも苦笑いする。
じぶんでも、その滑稽さはわかっているのだろう。しかし、そうでもしなければフィージアで取材の自由など得られるはずもなかったのである。もっとも、この時代、それは多かれ少なかれどの国にもあてはまることであり、ゆえに報道とは検閲をめぐる国家権力との戦いであるといってよかった。そして、それと戦うからこそウィットネスという新聞は高く評価され、記者たちもじぶんの仕事に誇りをもっていたのであった。
「さて、フィージアの首都パリスに入ったわたしはまず戸籍などの記録をあたることとしました。手始めに第一中央図書館で記録を調べましたが、残念ながらわたしの見つけたかぎりではゲルツェンという名前の人物で該当するような人間は見当たりませんでした。また教会関係も神父さまのおはなしを聞くかぎりでは、革命と、そのさいの宗教弾圧でめちゃくちゃになっていて、そうとう辺鄙なところか運よく戦火のおよばなかったところでもないかぎり出生記録などが完璧には残っていることはないであろうとのことでした。けっきょく、あの国では革命とその後つづいた戦火のせいで多くの記録が散々してしまったそうなのです」
「現在では、その記録の再編成に少なからず国費を投入せざるをえない状況だそうだからな。戦火とは人命や物とともに大切な記憶や記録をも焼いて、無に帰してしまうものなのだよ」
目をつぶり、黙想するようにブラッドストーンがささやく。
「まったく、おかげでわたしの仕事もあやうく暗礁にのりかかるところでした。ところが、親戚と母親のことをはなしておりましたところ、ふいにむかし彼女から聞いたはなしを思い出しました。当時、フィージアの男子の大多数は母国防衛の戦い――他国にとってはていのいい侵略行為でしたがね――に参戦したそうなのです。わたしのおじも徴兵されて出征し、亡くなったそうですが、同じようにゲルツェンが参戦した可能性ということに気がついたのです。氏は政治の中枢のそばにいたはずですから、軍部あるいはその近くに一時期いたはずで、そこから出世したのではと考えたのです。当時、無名の人間が出世するに戦場ほどいい場所はありませんでしたからね」
「それでフィージアの軍人に近づいたんですか?」
なんて危険は橋をとヴェットリーチェがあきれながらつぶやく。
「そうも思いました。しかし、やらなければゲルツェンという男の正体に近づけない。わたしは、そう覚悟したのです。覚悟。そうですね。たぶん、その取材をやっているのが他の国、あるいはロンバルディアだったら、そんな覚悟まではしなかったでしょう。しかし、そこはフィージアです。パスポートを偽造し、身分を詐称して入国。これだけで懲役何年がまっているかわかりません。いえ、生きていけるだけ幸運かもしれません。我々のような人間にとってあの国はくちを開けて待ち構える地獄の入り口になのですからね。あの国で取材をして、いったい同僚が何人も行方不明になったでしょうか?」
「何人も?」
「はい。『死をも覚悟せねばならないけどいいかね?』と取材が決定したとき編集長におどされたほどの国なのです」
ポールは誇らしげな表情をする。
「しかし、軍籍など簡単に見ることができるものなのかね?」
「地獄の沙汰もですよ」
「お金しだいね」
いまさらあきれるのもばからしいという口調でヴェットリーチェは肩をすくめる。
「まあ、しょせん世の中なんて、そんなものです。もっとも、それ以前から戸籍を調べるときもいくらか袖の下を渡していますから、いまさらなんですけどね。公証役場の小役人から警官にいたるまで、思いのほか効いたのが意外でしたけど。やがて、街の安酒場で軍歴についたことがあるというよっぱらいからおもしろいはなしを聞きました。ゲルツェンという名前の士官を知っているというのです。そして、それを端にして、その男の所属やらなにやらから士官が割れました。ゲルツェン・ヘンドリック――偶然ながらわたしのファミリーネームと同じです――この人物を調べると、若い頃から多くの手柄をたて、最後にはなんと国王直属の親衛隊の副隊長にまでなったことがわかりました。しかも生年月日、出身地こそは不明でしたが後見人の名前が、これまたおもしろい。革命のはじめから市民に組した貴族のひとりで親戚には委員会設立時のメンバーをも排出している一族の人間でした」
「一族ね……」
「ええ。わたしはこのような業界に身をおいていますし、小国のしがない身分の生まれですから気にならないのですが、フィージアのような歴史のある国では血のつながりが重要視されるようで――あ、いえ。そういうことでしたら貴族の出であられるあなたがたの方が詳しいでしたね――まあ、そういううさんくさい一族とかかわっている男です。名前がわかったところで、その時になってわたしはじぶんが委員会の名簿に目を通してないことに気がつきました」
「あれは部外秘ではないのかね?」
「そう聞いていました」
「いよいよ命知らずだな」
「そう思いました。そんな第一級の極秘事項を見せてもらえるものなのか――しかし、それがわかるまでの数ヶ月の間、わたしはなんだかんだで第一中央図書館に通いづめでして、勉強熱心な留学生として有名になったようです。おずおずと仲良くなっていた司書の女性に頼むと意外と簡単に許可をもらえたのです。委員会の名簿を確認しました。ゲルツェン・ヘンドリック――ありました。初期からのメンバーとして登録されています。そして、ちょうど、あの暗殺事件があった頃の名簿からぷつりと名前が消えていました」
意外そうなため息が女の唇からもれる。
「そこでもしもの場合を考え、死亡名簿も確認しましたが、同じ頃に死んだという記録はなし――さすがに、その頃の記録は完璧だと司書の女性は笑ったものです――すると、ひとつの可能性が浮かび上がってきます」
しだいに、ポールの声の調子が興奮していく。
「そこでわたしは、さっそく国外へ出ました。そして、編集部のつてでひとりの男とコンタクトをとりました――取材上の秘密ですから、名前は秘させていただきますが――当時、ゲルツェンと同じ親衛隊に属していた人物で、王の没後、貴族派に組みしたためクーデターで敗れ、外国に亡命した人物です」
なにかいいたげなようすでブラッドストーンは片目をあける。
「さて、その人物はわたしに会うと、白髪の老人とは思えぬ強い力でぎゅっとにぎりしめてきました。そして、らんらんとした眼光でわたしに『ゲルツェンとはまた難儀な男のことを調べているな!』といいました。
氏は彼のことをたずねると『王になるべく生まれ、しかし王になることのかなわなかった者だ』というのです。それほどのカリスマがあったというのでしょう。王に比すべき――生ける軍神とさえいわれた、かの王と同じようにひかって見えたと氏はいいました。なんでも、彼が親衛隊に入っていたのも王がその青年をじぶんの半身であるかのように大事にしていたのと同時に、危険なものは身近におくということを心掛けたからだったようです。しかし、王の男にたいする信頼は絶大だったらしく、王の使者として秘密の指令をこなすことが多く、またその必要性から変装が得意であったともいいます。
また、おもしろに笑われていわれたのですが、その変装はみごとで、ある時など親衛隊はふたりの王を見たことがあったそうです。もちろん片方は彼の変装なのはわかるのですが、どちらが本当の王なのか、いつも身近にいた親衛隊の面々すらわからなかったそうです。もっともゲルツェンの首には黒い薔薇のような痣があって、それでなんとか正体がバレたそうですけどね」
「完璧な変装の腕というわけね」
「すくなくとも氏はそういっていました。そして、それは彼にたいする噂のひとつを確とする証言でもあります。さて、そんな男ですから親衛隊の者すら知らぬ用事をいいつけられては姿を消すことがたびたびあったそうです。また、時に親衛隊の目すらごまかすような細工をすることもあったそうで、氏はだから、最後に王とケンカをして王宮を退出したのも、あるいは他人の目をごまかすための細工ではなかったかとのことでした」
「すごい信頼ね」
「まったくです。正直、そこまでいわれるとわたしもじぶんの判断を疑うしかありませんでした。しかし、わたしの記者としての勘はどうしてもそれが正解であるとささやいていたのです。そこで判断はいっとき保留としましたが――」
ふいに、いままで高揚していたポールの声が沈んだ。
「しかし、わたしのその判断は否定されることとなりました。しばらく、どうするかと編集部の仲間とその件で議論をかわしていると、ある日、わたしに会いたいという人物がやってきました。
編集部にやってきたのはフィージア第一中央大学のゲルツェン教授という方でした。なんでも文学部の教授で、なにげなくたずねると、図書館で仲良くなった司書の恩師であることがわかりました」
「あらあら、そこから情報がもれたのかしら?」
「そうかもしれません。親が子が、子が親を見張っているという国柄ですから当然かもしれませんがね。正直、わたしは不信心ですが、このときばかりは生きて帰れた幸運を神に祈りましたよ。さて、対面した氏は一礼したのち『いろいろと調べられたようで』と鋭い視線でわたしを見つめました。ナイフを突きつけられたような――慣用句として知っていた言葉がその時ほど本当であると思ったことはありませんでした。腰の低い、丁寧な口調にもかかわらず、その視線を感じるだけで冷や汗がでてきました。
氏はいいます。『王のもとで親衛隊で働いていたし、またとある秘事を頼まれたこともある。そして、王から暇をいただき退官したことがある。そして、その時に王が亡くなられたのはたんなる偶然であった』と。『それに、君がどう考えているのかはわからないが、委員会の顧問をおおせつかっているとはいえ、わしは君の考えているほど偉大な人物ではない』とね。そして、無実の証として現役の委員会の証明であるといって薔薇の指輪を見せました」
「薔薇の指輪?」
「わたしも、それまで噂だけはかねがね聞いていた薔薇の指輪。フィージアにおける絶対的な証で、胸の薔薇と同じ色のものが議員などの特別な身分の者だけにあたえられているといいます。その時、見せられたのは確か赤色のものであったと記憶しています。まあ、そんなわけでわたしの仮説はもろくも崩れました。そして、なによりも参ったのは帰りのさいなにげなく確認すると首に痣があるのがわかったことなのです」
そう言ってポールは大きく肩を落とした。その瞬間、いっきに十才ほど歳をとったような疲労感がありありと浮かんでいた。
「けっきょく、あなたはその王の前から消え、また名簿からも忽然と消えた男を歴史の影にうごめくゲルツェンだと結論づける予定だったけど、あてが外れたというわけね」
「そうです。しかし、そういうしだいにもかかわらず、わたしにはどうしても、この件がしっくりこないのです。勘なんてものより、目の前の事実こそが大切なのはわかっています。わかっているのですが、新聞記者として鍛えられた勘が、なにかの罠を訴えかけている。そんな気がするのです。まあ、以上のしだいをこの前、お手紙したのですがいかがでしょうか? なにかわたしを納得させる、あるいはどうしたらいいかというアイデアはないでしょうか?」
その言葉を待っていたように、ブラッドストーンは両目を開き、姿勢をあらためると、ポールを見つめた。
「ふたつ質問させてもらうよ。ひとつは君はここ数日、新聞、とりわけ地方紙をしっかりとは読んでいない。ちがうかね? あの会社から汽車できたそうだから、ここまで二三日くらいかかるはずだが?」
「はい……そうですが――」
「そして、ふたつ目。君の取材した人物の名前はアンシャス・ナンシャスという男で、この国タルスにいたのではないかね?」
「えっ!?」
みるみるうちにポールの血の気が引いた。
「『なぜ知っているのですか? わたしは、そのひとの名前をひとこともくちにしてはいませんよ!?』かね? もうすこし想像性のある反応をみせてほしいものだね」
つまらんといった調子でブラッドストーンは鼻を鳴らした。
いわんとしたことを先にくちにされ、言葉にとまどううちに、ブラッドストーンが追い打ちをかける。すでに葡萄酒の飲み干されたグラスの置かれた机から、新聞をとりあげると、ポールに手渡した。
「記事を見てみたまえ。左斜め下。尋ね人の広告蘭のちょうど上くらいだな」
そこには、数行ばかりのちいさな記事があり、アンシャスという男が溺死したことが書かれていた。しかも、最後に故人がもとフィージア国王の親衛隊であったことがも記されている。
「これは……」
「消されたというわけさ」
手の甲に顎をあてながらブラッドストーンはにやりと笑った。
「そうさ。殺られたのだよ――フィージアの思想統制局だろうね。これは、君にたいする警告か……その男にたいする制裁か。あるいは、その両方であったのか……まあ、それはどうだっていい。君はかれらを舐めすぎていたということさ」
「かれら?」
「思想統制局。さっきいったきりになっていたね。フィージアの思想統制局。委員会、国会議員と同様にフィージアの最高権力の証である薔薇の指輪――たしかかれらは黒だったかな――をはめることを許された存在さ。国内外で合法、非合法とをとわず超法規的な活動をおこなっている連中だよ。まあ、いわゆる諜報機関だね。もちろん表に出てくるようなことはないけどね。ぼくにも幾人か君の会社に知り合いがいてね、ともにそいつらと戦ったこともあるんだよ。だから君の社が知らないということはありえないんだけどね? もしそうだとするのならば、ウィットネスの中にも奴等の息のかかった者がいるのかもしれないということだな」
「しかし、なんでそんな連中が……現在、生きている委員会の人間のあらを調べているのならばともかく、すでに鬼籍に入ってしまった人物をのことを調査しているだけだというに……それこそ、警察ならばともかく――」
「君はさきほどゲルツェンの首には黒い薔薇の痣があったといったね?」
ブラッドストーンの瞳が妖しくひかる。そして、まるで、眠りに誘うような甘い声でささやく。
「はい……」
「死後、何日か――この記事には書いてないし、君のその男を取材した日がわからないから、はっきりとはいえないからなんともいえないけど、あるいは、その男は君が会う前にすでに殺されていたのかもしれないよ」
「えっ……――」
ポールはブラッドストーンの真紅の瞳に、すいこまれるような感覚をおぼえた。
「そして、君が会ったのは思想統制局の人間がなりすましたニセ者かもしれない――その者も黒薔薇を身につけていたのだろうね。なぜならば、それこそが思想統制局の証であり、なによりもゲルツェンの証でもあるのだからね。ゲルツェンは現代でも生きている。それはまちがいない。君に会いに来たゲルツェン教授はもちろん、教え子である司書の娘も、あるいは君の世話をしてくれた親戚のひともゲルツェンなのかもしれないよ。ゲルツェンとは、個人の名前ではなく、思想統制局の人間全員が使う偽名なのだからね。君はいったね。彼は変装の名人だったのだと。ちがうのさ、多くの人間がその名前を使って、その架空の人間になりすました。結果、あまりにも多くの姿があったから、そのことをひとびとが合理的に理解しようとした結果、それぞれが別々の人間なのではなく、変装をしていると思われるようになったのだよ。おや、もうそろそろ夕暮れか。さあ、お帰り――薔薇の枯れてしまわないうちにね」
甘いささやきにさとされると、ぼんやりとした瞳の依頼人はよろよろとなりながら部屋を出て行く。ヴェットリーチェが後を追う。しばらくすると、迷うことなく駅まで帰れる場所まで男を送っていったメイドが戻ってきた。扉を閉めるが、なにかうろんな視線で主人に問う。
「なにかね?」
「あのひと……なにかヘンなようすでしたけれど?」
「真実におどろいたのだろ?」
「真実ですって!?」
ふたりになり、いつしかメイドの口調が、幼馴染みのものへと変わっていく。
「まあ、はなしを聞いただけの想像だから確証はないがね」
なにかひっかかるものがあるといった表情でヴェットリーチェは別のことをくちにする。
「そういえば、お酒のお味はどうでした?」
「いまごろかい? おいしかったさ。降臨歴1833年――そういえば、フィージア最後の王の亡くなった年だね――収穫月にできた王の涙の血とは、またおもしろいものがあると思ったよ」
「ならば、残っているものはぜひとも呑まないといけませんわね。それにしても、農業歴とはめずらしいですわ。ふだんは6月というおもしろみのない工業歴を使われる方が」
「なにがいいたいのかな? たまには詩的な響きのある言葉も使いたくなるということだよ。あのような愉快な問いと、このような美酒があるとね」
ふたたび、グラスに葡萄酒を注ぎ、ブラッドストーンはそれをあおった。
「他人のお酒をよくおいしそうにのまれて勝手な言い分ですね」
語気をわずかに荒げ、夕食後のたのしみを奪われたメイドは半分ほど空になった瓶をとりあげ、主をにらんだ。ブラッドストーンの瞳には危険な色が浮かぶ。
「だいぶ機嫌が悪いんだね?」
「ええ。あなたに、そんなことをされるなんてね……エニグマ!」
と、その時、壁を奇妙な間隔でたたく音がした。
ヴェットリーチェの顔から血がひく。
そして、もう一度、その音が鳴り響き、
「そうだったんだ……」
と、メイドに納得の表情が浮かんだ。
「なんだね?」
「うまく彼に化けましたね。本当にあのひとならばいいそうな言葉づかいで。幼馴染みのはずなに、あたしもいままでまでずっとだまされていましたわ」
葡萄酒の瓶を机に戻しながらヴェットリーチェはほほえんだ。
「おもしろいことをいうな? いつのまにぼくの目をごまかしてお酒を呑んだんだい?」
「残念だけど、あたしはしらふですよ」
「ならば、なにを根拠に酔夢のようなことをほざけるのか根拠を聞きたいな」
「ひとつはいまもいったとおりこの葡萄酒。あの方のような病弱な方に、酒、たばこなんていう身体によくないものは、あたしの目に見えるところでは絶対にあたえることはありませんからね。それに、隠れて煙草を吸ったり、お酒を呑んでいることをあたしが知らないとでも思っているのですか? 本当に、まだ子供なんですから」
そういって、ヴェットリーチェはまるでどこか別の場所にでもいるかのように年上の主のことを笑った。
「その他には?」
「ふたつ目に、あなたの推理があまりにも論拠だけによっていること。いつもは、あんなに証拠と現場に固守して、そして事務所を飛び出しながらいうでしょうに。『ヴェットリーチェくん。さあ事件だ』ってね」
「仕事内容と気分の問題だよ」
ほんのわずかだがブラッドストーンの身体が動き、ほんのすこしだけヴェットリーチェは身をすくめた。
「そして、なにより――」
その瞬間、音もなく、ブラッドストーンの胸元から銃弾が発射され、ヴェットリーチェがスカートの裾をはたけさせながらナイフを投げつけた。
「みごとだな」
こみかみを狙って打ち込まれたはずの銃弾はヴェットリーチェの髪を数本だけまきこんで壁にのめりこむ。
「あなたこそ」
ナイフはブラッドストーンの首もとをかすっていた。
「いい動きをしている」
「
女が誇ってたようにいうと、男の服からはらりと襟が落ち、首もとの黒薔薇の刺青があらわとなった。そして、ふたりは、その声を聞いたのである。
「聞かせてもらったよ。なかなかたのしいやりとりだったね」
「貴様か!」
ブラッドストーン――の姿をした何者かが叫んだ。
棚が低い音をたてながら動くと、そこにはエニグマ・ブラッドストーンがいた。
赤い瞳と銀色の髪。そして、白い肌に同じ色のマントを羽織り、あたかも骨が衣装を羽織っているとも、白い幽鬼が立っているとも見える。しかし、その瞳には青年というよりも、まだ少年であるかのようなきらきらとしたかがやきがあり、その男が生きていることを宣言していた。
「おっと動かないでもらおうか」
短銃をかまえながら、ブラッドストーンはさっきまでポールが座っていた椅子に腰掛けた。ニセのブラッドストーンは肩でため息をついてみせて懐の拳銃を机の上の置くと、変わりにパイプを取り出してくちにする。
「これくらいいいだろ?」
「ああ」
そういってもうひとりのブラッドストーンもパイプをくちにした。ヴェットリーチェがとがめるような視線を送るが、どこ吹く風。
「煙草はやめなさいっていってるでしょエニグマ! それに、いつのまに、そんな仕掛けを作ったの!?」
「君の買い物にでかけている時に、こつこつとね。たのしい工作だったよ。しかし、もうこの部屋は使えないな。せっかく、おもしろいものができたと思ったのに」
「なるほど、そんなところに部屋があったのか。探し物が見つからないわけだ」
「さて、君が探していたのはこれかね?」
ポケットから一枚の紙をとりだす。
「たぶんな。わたしが見つけた封筒には、あの青年の手紙が入っていたから抜き取られているとはさっしがついたがね」
「そういえば、さっきいっていたね。『君にたいする警告か……あるいは、その男にたいする制裁なのか。あるいは、その両方があったのかもしれない』と。まったく同じ言葉を君に返すよ。手紙を取り返しにきたのかもしれないし、ぼくを殺しに来たのかもしれない。あるいは彼をだますつもりできたのかもしれないし、もしかしたら、その全部であったのかもしれないとね」
「『さて、なにからはなしてもらおうか?』かな?」
ブラッドストーンの姿をした他者がブラッドストーンの言葉と声でたずねる。
「残念だが外れだ。君を相手に、そんな失礼なことをたずねたりはしない。本題だ。暗号は解かせてもらった、ウィットネス社内部におけるスパイの養成とはなかなかおもしろいくわだてだったようだね。もっとも君たちの奪回を警戒して、こんな田舎にこもらなくてはならなかったというのは予定外もいいところだけどね」
「なにをいっている。いい場所ではないか。温暖で静穏で……どうだ、世間に発表してあるように、このまま引退したらどうだ?」
「君……いえ、あなたのような、ご老人が引退するには最高の土地柄でしょうね。しかし、こちらはまだ若い身の上でしてね、ぼくのような病人が療養のために滞在するならばともかく、元気さだけはそこらへんのメイドの数千倍はある、うちの娘には退屈なだけだったと思いますよ。正直、ぼくは、ここに来てから毎日、いつ『暇です! 飽きました!』といって彼女が剣をふりまわすんじゃないかと思って、ひやひやだったんですから」
「ひどい男だな。このような美しいレディにたいして」
「ひとを殺そうとしていて、よくもしゃあしゃあといえますね」
「感情と論理は別物だよ。そして必要とあれば論理は感情よりも優先順位を上位としたいものだとわたしは考えておるのでね」
「その点は同意しましょう」
「あのね……」
ヘンなところで意気投合するふたりをメイドはあきれたように一瞥した。
「なんにしろ、やはり解読されていたか。まあ、いまさら放棄した策をとがめだてられたところでなんら気にはならないがな。まあ、むかしの汚点を他人さまに知られるのはあまり気持ちのいいものではなかったから、こうして取り返しに来てみたところ――」
そういって男は肩をすくめ、
「見つからないわけだ。それにしても、きたならしい部屋だな。いままでに何百人と家宅捜査をしたことがあるが、ここがいちばんだよ」
と、横柄な態度であざわらった。
「機能的でかい?」
「なにをバカなことを!」
「いや、バカではないさ。部屋をきたなくしているのには理由があるんだよ。ぼくには、これがもっとも効率のよい状態なのだし、なによりもぼくの大切な場所にはいりこんできて盗みを働こうとする者にたいして、よい罠になるのでね。たとえば戸棚の中のようなところに、ひとは物を隠しがちになる。そして、腕のいい泥棒とはその心理を知るものたちだ。さきほどあなたが何気に葡萄酒やグラスを発見したようにね。しかし、それが通常とことなれば……どうだい?」
「屁理屈を!」
もうひとりのブラッドストーンが鼻で笑った。メイドも同意です。
「まったく。そうじをしない子供なみの論理なんだから」
「ふたりで息をあわせない!?」
「だって事実じゃない! だいたい――」
ヴェットリーチェの口調が数時間はつづくいつもの小言になりそうになったので、ブラッドストーンは抑えるようにと手をあげる。
「しかし、意外だったな。思想統制局から情報を奪ったから誰かがくるとおもっていたのだが、まさかあなたほどの方がいらっしゃられるとはね?」
「あなたほどの方?」
「わからないかい。ヴェットリーチェくん? ならば紹介しよう。フィージア評議会初代委員長にして、現在では最高顧問でもあらせられるゲルツェン・ヘンドリック教授だよ」
「じゃ、じゃあ……」
「そう。さきほどからはなしにでている歴史上の生き証人にして有名人たる人物がここにおられるというわけだよ」
「でも、なんでそんなひとが……」
「まだ、わからないのかい? あいかわらず寝覚めの悪い娘だな。もう夕方だというのに。それとも、なんだい早くも眠気をおぼえているのかい?」
「あたしは、あなたとちがって朝型なんですよ。伝説の化け物たちじゃあるまいし、なにが哀しくて夜中に起きていたり、夜の街を徘徊したりしないといけないんです! それに、そろそろお肌のためにも夜遊びはさけないといけない年頃なんですよ!」
ふたりのやりとりを、まるで愛おしい孫たちをながめる老人のように目を細めながら、ゲルツェンは、しかしくちには苛烈なことをいう。
「我々も暇ではないということだよ。この歳になっても一年中を休暇にするわけにもいけないらしいのでね。いちばん暇そうだったわたしのもとに仕事が回ってきたというだけのことさ」
「皮肉ですか?」
ブラッドストーンは不満そうにいう。
「ああ。革命を信望するものとしては平時にぬくぬくとしながら、そのくせ永世的な権力略奪階級である王族とか貴族というものがきらいなのでね」
「ご自由におきらいください」
もし戦争がはじまったのならば、いちばん最初に銃弾に倒れることが義務とされる国の貴族は他国の市民を軽くあしらう。
「まあ、いい。貴族はきらいだが、君のように有能な若者は大好きなのでね。同志から噂をかねがね聞いていて、どれほどのものかと思い来たのだが予想以上だよ」
「そういえば、直接、お目にかかるのははじめてでしたね。まあ、ほめられたことですし、感謝のひとつでもいっておきましょう」
「歯がゆいな。ところで、君は、わたしの推理をどう聞いたのかね?」
「なかなかおもしろい説をおっしゃってましたね。ゲルツェンとは諜報部の全員が使っている偽名である。確かに、そういう面もあるでしょうし、ぼくやヴェットリーチェもそういう人物に出会っていますからね。しかし、もうひとつ論理的な可能性があるのではないでしょうか? 彼が会ったというすべてのひとがあなたの変装――いや、すべてが本当の姿だとしたら? そして、あなたが半世紀よりも以前から生きているとしたら? つまりあなたは――」
しかし、ブラッドストーンは、その
突然、蒸気機関車のようなかんだかい音をあげて、ゲルツェンのパイプから白い煙があがったのだ。
部屋中が煙幕で隠れ、ブラッドストーンが咳き込みながら、発砲する。
手応えはない。
数発、連続して撃つがどれもからぶりだ。弾が切れると、煙幕の中から女の笑い声がしてきた。
「だれ?」
涙目のヴェットリーチェが問う。
「よくも、ひとの身でそこまで気がつくものね」
「ゲルツェンか?」
「そうよ。それにしてもたのしいひとときだったわ。夜の帳も降りる頃だし、そろそろ、わたしもお暇させていただきましょうかしら。でもね、本当にあなたたちのこと気にいっちゃった」
「それは、ありがたいな。あなたが、その声のような姿であらわれたのならばヴェットリーチェとよい友達になれそうな気がするよ」
「そうね。ぜひとも機会があったら、そうしたいわ。そして、あなたたちふたりをいただきたいもの」
「すでに主ある身で、なぜフィージアの旗を仰がなくちゃいけないのよ!」
騎士が叫ぶ。
「そして、ぼくもロンバルディアの貴族だからね裏切る理由もあるまい?」
「残念ね。でも、急ぐ必要もないし、いつでもわたしのところにいらっしゃい。永遠に待っていましょう」
そんな捨てぜりふが煙の向こう側でしたかと思うと、窓が割れる音がして、外から車のエンジンの音が鳴り響いてきた。
「逃げたか!」
「そんな! ここをいったい何階だと思っているんです?」
犯人を逃がさないために高い階層に部屋をとったんじゃないですかと叫びながらヴェットリーチェは窓を開けた。
涙の浮かんだ双眸に闇の中へ溶けこむように飛び降りる女の姿が浮かんだ。まるで地上に舞い降りる白鳥のように、長い髪をなびかせるかぼそい姿は優雅で、階下の細い街路を猛スピードで走ってきた車の屋根に着地すると、その車ははやくも黒点となりながら暮れなずむ街のなかに消えていった。
ただ、ヴェットリーチェの鼻孔には駅でかいだ、あの香水のかおりがかすかすにかおり、椅子には黒色の髪が残っていた。
「列車の出発時間は聞いているね?」
これからどうすべきたずねようとする間もなく鋭い声があがった。
「夕刻だといっていました」
駅の方角からじきに発車することをしらせる汽笛が響いてきた。
「では、すぐに支度をしてくれ。できれば剣も用意した方がいいな」
「えッ?」
「パリスに乗り込むことになるかもしれない」
「なんですって!?」
「ポール君が狙われているんだ。ゲルツェンが推理のフリをした暗示をかけていたんだよ。たぶん薔薇になにかの薬がぬられていて、催眠導入をしやすくしてあったんだろうな。すでにやつらの術中にはまっていると考えていいだろう。
すべては、最初――彼が新聞に記事を書くことになったという時――から練られた計画だったのだよ。ウィットネス社に情報網を張り巡らせると共に、そこを有能な若者をスカウトするための訓練機関とする。ぼくの手にいれた思想統制局の資料には、そのことが詳しく書かれていたよ。たぶん、フィージアに取材にいって帰ってこなかった連中というのは、最終試験を受けるために入国し選ばれたというわけさ。そのさき、フィージアに帰属したか消されたのかわからないけどね――ぼくにも記憶があるよ、そういう職種で糧を得ていたはずなのに、いつしか各国諜報機関に身をおいてしまった人間たちをね――そして、今回のターゲットとして彼が選ばれたというわけだ」
「そして、合格した」
「そうさ。しかも、ゲルツェンの甥っ子だ。ヤツらは、ぜひとも彼をじぶんたちの一味に迎え入れる気でいるよ」
「なんですって!?」
「新聞社が動くようなことをぼくが調べてないわけないだろ? この件はずっとむかし調べがついているんだ。あのゲルツェンの横顔を拝むこととなった、とある事件がその発端だったけどね。まあ、それはいい。行かなくちゃ!」
「じゃあ?」
「ああ、ぼくに助けを求めにきたひとを見殺しにするなんて貴族としての誇りが許さない。そして、なによりも君の騎士道にかけてできないだろ?」
女の胸が激しく高鳴った。首をたてにふる。満足したような顔でうなずくとブラッドストーンは、扉を開けながら、その言葉をくちにした。
「ヴェットリーチェくん。さあ、事件だ!」

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| ページ作成: | ゲスト | - 2005/04/05 19:01:02 JST(1324d) |
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